第3554話 2025/12/01

多元史観で見える蝦夷国の真実 (7)

 ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―

『日本書紀』に「蝦夷国」という国名表記は斉明五年(三月)是月条と同七月条「伊吉連博德書」中の二ヶ所に見えます。次の通りです。要点のみ抜粋引用します。

○斉明五年(659年・三月)是月条
阿倍臣〈名を闕(もら)せり〉を遣して、船師一百八十艘を率いて、蝦夷國を討つ。阿倍臣、飽田・渟代二郡の蝦夷二百卌一人、其の虜卅一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷廿人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。〈膽振鉏、此を伊浮梨娑陛(いふりさへ)と云ふ〉卽(すなは)ち船一隻と五色の綵帛(しみのきぬ)とを以て、彼地の神を祭る。肉入籠(ししりこ)に至る。時に菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(いかしま)・菟穗名(うほな)、二人進みて曰く、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所とすべし。」〈肉入籠、此を之々梨姑(ししりこ)と云ふ。問菟、此を塗毗宇(とひう)と云ふ。菟穗名、此を宇保那(うほな)と云ふ。後方羊蹄、此を云斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か〉膽鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に隨ひて、遂に郡領を置きて歸る。(後略)

○斉明五年(659年)七月条
秋七月丙子朔戊寅(三日)に、小錦下坂合部連(むらじ)石布・大仙下津守連吉祥を遣(つかは)して、唐國に使(つかい)せしむ。仍(よ)りて道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
〈伊吉連博德(はかとこ)の書に曰く、「同天皇の世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等が二船、呉唐の路に奉使(つかは)さる。己未の年(659年)の七月三日を以て、難波三津の浦より發(ふなだち)す。八月十一日に筑紫大津の浦より發す。(中略)潤十月一日に越州の底(もと)に行到(いた)る。十五日に驛(はいま)に乘り京に入る。廿九日に、馳(は)せて東京に到る。天子、東京に在(ま)します。卅日に、天子相見て問訊(と)ひたまはく、日本國の天皇、平安(たひらか)にますや不(いな)やと。(中略)天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや。使人謹みて答ふ、國の東北に有り。天子問ひて曰く、蝦夷は幾種ぞや。使人謹みて答ふ、類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留と名づけ、次の者をば麁(あら)蝦夷と名づけ、近き者をば熟(にき)蝦夷と名づく。今此れは熟蝦夷なり。歳毎に本國の朝(みかど)に入貢す。天子問ひて曰く、其の國に五穀有りや。使人謹みて答ふ、無し。肉を食いて存活(わたら)ふ。天子問ひて曰く、國に屋舍有りや。使人謹みて答ふ、無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む。天子重ねて曰く、朕、蝦夷の身面の異なるを見て、極理(きはま)りて喜び怪しむ。使人遠くより來(きた)て辛苦(たしな)からむ。退(まか)りて館裏に在れ。後に更(また)相見む。(後略)」〉
〈難波吉士(きし)男人の書に曰く、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に觸(つ)きて覆(くつが)へる。副使、親(みづか)ら天子に覲(まみ)へて、蝦夷を示(み)せ奉(たてまつ)る。是(ここ)に、蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭(や)八十を以て、天子に獻(たてまつ)る。」(後略)〉

斉明五年(659年・三月)是月条は、九州王朝時代の記事ですから、九州王朝(倭国)による蝦夷国への侵攻の記録史料に基づくものと思われます。ここでは明確に「蝦夷國を討つ」とありますから、九州王朝は蝦夷国を国家と認識していたと思われます。しかし、その後の記事に依れば、蝦夷らを集めて「大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ」とあり、実際には戦闘が行われた雰囲気でもありません。また、「政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か」とする記事から、蝦夷国は「政所」と呼ばれる行政単位を持っていたことがうかがえます。国家であれば、国内統治のために下位の行政単位を持つことは当然ではないでしょうか。

その「政所」に「遂に郡領を置きて歸る」とあることから、後方羊蹄の「政所」に「郡領」、実際には「評督」を置き、阿倍臣らは九州王朝に帰国したのではないでしょうか。七世紀中頃に九州王朝は全国に評制を施行し、評督を任命していますから、その一環として蝦夷国にも評制を施行しようとした記事が、この斉明五年是月条の記事だったのではないでしょうか。

斉明五年(659年)七月条も、「道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す」とあり、九州王朝(倭国)の使者に同行して蝦夷国の使者が唐の天子に謁見したことがうかがえます。

伊吉連博德書にはより詳しく謁見の様子が記されており、「天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや」とあり、唐の天子は蝦夷国を「国」と認識していたことがわかります。

「難波吉士男人書」には、「蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭八十を以て、天子に獻る」とあり、この「蝦夷」とは蝦夷国から唐への朝貢使であったことがわかります。

これらの蝦夷国記事については、古田武彦氏が早くから着目されていました。(つづく)

〖写真説明〗
“北海道博物館開館記念特別展” 蠣崎波響 「夷酋列像」展 ( いしゅうれつぞう)

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