第3565話 2025/12/27

多元史観で見える蝦夷国の真実 (補遺)

 青森県の日本中央碑と佐賀県の中央碑

 〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟とする考察に至った今、以前に「洛中洛外日記」(注)で紹介した青森県と佐賀県の「中央」碑のことを思い出しました。その概要は次の通りです。

 〝「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にあるが、佐賀県にも「中央」碑がある。佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)がある。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っている。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とある。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布している。

 この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされている。この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではあるまいか。それは次の理由からだ。

 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われるが、古代では蝦夷国だった地域であり、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうだ。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されている(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、一九九二年)。
「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」
古田武彦氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は愛瀰詩と呼ばれていたことがわかる(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされる。従って、神武歌謡の愛瀰詩と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたことになる。

 そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然ではなく、「中央」信仰の痕跡と見るべきではあるまいか。佐賀県の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせる。また、佐賀県三養基郡に江見(えみ)という地名があるが、これもエミシと関係がありそうである。

 佐賀県の「中央」碑は、「あまり粗末にしても、あまり丁寧にお祭りしてもいけない」とされており、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせる。〟

 それでは、〝大地の神〟とされる佐賀県の「中央」神・「荒神」とはどのような神様でしょうか。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」57話(2006/01/15)〝佐賀の「中央」碑〟

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