國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (2)
―古田説誕生の発端、「中国海」―
九州の片田舎の中学を卒業し、高専で有機合成化学を専攻したわたしは、恥ずかしいくらい古典・漢文について無知でした。高校・大学で学ぶような文系の素養がほとんど無かったのです。その不勉強さに、古田先生は何度もあきれかえられていました。今、思い出しても赤面する出来事が何度もありました。ですから、わたしの中国古典の知識は古田先生の著作から学んだものであるため、その基本理解は七十歳の今でも、古田史学・古田説により形成されています。なかでも最も影響を受けた著作の一つが『邪馬一国への道標』(注)です。同書は〝です・ます調〟で書かれており、初学者や一般読者が古田先生の史料批判や文献理解の方法を学ぶ上で、珠玉の一冊です。その冒頭に、同書の中心テーマを表す言葉として、「中国海」という造語が説明されています。
「中国海 そのとき、わたしは考えました。〝中国大陸と朝鮮半島と日本列島(九州と沖縄)に囲まれた海〟――これも「内海」ではないか、と。〔中略〕
ところが、この「内海」には、包括的(トータル)な名前がありません。北の方が渤海(ぼっかい)、真ん中が黄海、南の方が東シナ海。しかし、全体の名前がないのです。
そこで〝造る〟ことにしました。――「中国海」です。〔中略〕とすると、中国、朝鮮半島、日本列島の三つは、〝中国海を内海とする〟文明圏だ。」
このことを裏付ける考古学的出土物に「玦(けつ)状耳飾り」があります。縄文早期末(約7000年前)の日本列島や中国浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5000~3000年)などからも出土しており、日本列島から長江沿岸地域を結ぶ文明圏の存在を示しています。また、縄文中期(紀元前3000~2000年)には縄文土器が太平洋を渡った痕跡として、南米ペルーのバルディビア遺跡出土の縄文土器が知られています。太平洋を渡れた倭人(縄文人)が東シナ海を渡れないはずはありません。
『邪馬一国への道標』では文献史学の史料根拠として、王充(後漢代、一世紀の人物)の『論衡(ろんこう)』に記された、〝倭人の周代貢献〟記事が紹介されています。
○周の時、天下太平、越裳、雉を獻じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す。 (巻八、儒増篇)
○成王の時、越常、雉を獻じ、倭人暢草(ちょうそう)を貢ず。 (巻一九、恢国篇)
王充は後漢の光武帝に仕えた官僚ですから、光武帝が倭人に金印(志賀島の金印)を与えたことを知っているはずです。ですから、『論衡』に記された「倭人」は、金印を与えられた日本列島の「倭人」であると認識していたことを疑えません。すなわち、後漢の天子や官僚たちが、周代における倭人の鬯艸貢献伝承を史実として、疑っていないのです。
この周代(注②)の倭人貢献伝承が史実であれば、孔子もその伝承を知っていたはずとして、古田先生は〝孔子は東夷(倭国)を知っていた〟根拠の一つとしたわけです。この論理性(論証)により、古田説は仮説として成立しています。(つづく)
(注)
①古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
②従来説によれば、周の第二代成王の年代を紀元前11世紀とする。わたしは二倍年歴による補正が必要であり、実際は数百年新しくなると次の拙稿で発表した。
「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2018年。
「二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』170号、2022年。
「『二倍年暦』研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―」『古田史学会報』172号、2022年。
「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。