『多元』192号に掲載された
「飛鳥宮天武政権の実態」
友好団体の多元的古代研究会の会報『多元』192号に拙稿「飛鳥宮天武政権の実態 ―飛鳥木簡の証言―」を掲載していただきました。同稿は、令和八年の抱負とした木簡研究のアップグレードの一環として執筆したものです。冒頭に、古田先生が木簡研究を始めた五十年前とは異なり、研究環境は劇的に変化し、今のわたしたちは実に恵まれた研究環境にあるとして、次の3点を指摘しました。
(ⅰ)飛鳥・藤原木簡出土量の劇的な増加。
(ⅱ)奈良文化財研究所HP「木簡庫」による検索機能の出現。
(ⅲ)市大樹氏による木簡研究レベルの高度化と公開。
これらの恩恵を受けて、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の飛鳥宮での天武天皇らの実態が木簡により明らかになりつつあります。具体的には次のことを紹介しました。
①飛鳥遺跡からは「天皇」木簡や天武の子らの名が記された「皇子」木簡(大伯皇子・舎人皇子・大津皇子・穂積皇子)が出土しており、天武と子供たちは「天皇」「○○皇子」と名乗っていたことが決定的となった。
②飛鳥宮で「天皇」を称した天武らが、「詔」を発していたことを示す木簡が飛鳥池遺跡南地区出土している。
③飛鳥の石神遺跡から「仕丁」木簡が出仕している。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められている。これは、飛鳥に各地から仕丁が集められ、そこに行政府があったことを意味する。
④七世紀(評制下)の官職名が記された木簡が飛鳥宮(石神遺跡・苑池遺構)から出土している。
○「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「嶋官」「干官」 苑池遺構(天武・持統期)
これらの飛鳥出土木簡が示すように、天武ら近畿天皇家は飛鳥宮で天皇や皇子を称し、詔を発し、各地から仕丁を徴発し、官庁を置き、ヤマト政権の天皇として振る舞っていたことがわかりました。そして、飛鳥出土木簡により、七世紀後半の近畿天皇家の実態が実証的に明らかになりつつあると説明しました。
『日本書紀』などの史料解釈にとどまることなく、同時代史料の木簡に基づいた歴史研究を古田学派研究者が重視することを願っています。