第3610話 2026/03/19

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (10)

 ―孔子は倭人を知っていた―

 数ある孔子の弟子で、最も多く『論語』に登場するのが子路(名は由)です。『論語』には孔子と弟子との対話が記されており、中でも有名な一節が「公冶長第五」に見える次の記事です。(注①)

○『論語』公冶長第五
〔原文〕子曰、道不行、乘桴浮于海。從我者其由與。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。
〔釋文〕子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由かと。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無しと。
〔現代語訳〕先生が言われた。「(今の中華では)道が行われない。筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう(海の向こうの国に行こうか)。私についてくる者は、由であろうか。」子路がそれを聞いて喜んだ。先生は言われた。「由は、武勇を好むことは私以上だ。しかし、筏の材料を得る才能はないな。」

 孔子と血気盛んな子路との師弟間の対話には、孔子の意味深長な二つの認識が示されています。一つは、中原の諸国に仁義を説いてきた孔子をして、「道行われず」と嘆く中華の状況。二つは、「桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」とあるように、海中の国にはその仁義が行われており、筏に乗って行ってみたいものだという認識です。

 この孔子の言葉を深読みすれば、道が行われているのは海の向こうの国だけで、西や南北の国では中華同様に仁義が行われていないと孔子は考えていたのです。そうでなければ、わざわざ筏で海を渡ろうとは言わないはずです。大陸国家の中国ですから、海路よりも陸路の方がはるかに安全で、孔子も陸路の旅行には慣れています。しかしそこにも中華同様に仁義は行われていないので、孔子は筏で海を渡ろうかと子路に語りかけているのです。

 それでは海の向こうの国とはどこでしょうか。それは『論語』子罕第九の次の記事から推定できます。東方の海中にある「九夷」の国です。

○『論語』子罕第九
〔原文〕子欲居九夷、或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。〔現代語訳〕孔子は九夷の中で暮らしたいと願った。ある人が「それは野蛮だ。どうしてそんなことができるのか」と尋ねた。孔子は「もし徳のある人(君子)がそこに住むなら、どうして野蛮だと言えるだろうか」と言った。

 ここで孔子は「九夷」に住みたいとまで言っているのです。そしてこの「九夷」とは『爾雅』釋地第九に記された東方の「九夷」、すなわち東夷の国です。

○『爾雅』釋地第九(注②)
〔原文〕九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。
〔釋文〕九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。

 ここには、「東は日が出るところを大平と為し、(中略)大平の人は仁」とあり、東の日出ずるところの「大平」は、儒教の最高の徳目を表す「仁」の人の国とされています。これこそ、孔子が筏で行きたいと願った仁義の国であり、東の海の向こうにある東夷であることを如実に表しているのです。そしてこの東夷の国こそ、『山海経』に記された「蓋國」(朝鮮半島の国)の南にある「倭」に他なりません。

○『山海経』海内北経(注③)
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

 このように『論語』公冶長の孔子の言葉を、『論語』の他の記事や周代史料に基づいて理解すれば、古田先生が「孔子は倭人を知っていた」としたのは、優れた論証の結果であることが明らかなのです。本シリーズ冒頭で國枝稿の論証には賛成できないとした、わたしの見込みは間違ってはいなかったようです。

 最後に國枝浩さんに感謝したいと思います。この度、國枝稿(注④)に触発されて、20年ほど前に古田先生から託されていた周代史料の研究を再開することができました(注⑤)。ありがとうございます。(おわり)

(注)
①原文と釋文は明治書院新釈漢文大系『論語』(1960年)による。現代語訳は古賀による。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。
③原文は中国哲学書電子化計画(WEB)による。釋文は古賀による。『山海経』は中国最古の地理書。
④國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
⑤『論語』は二倍年暦で書かれているとする論文をわたしが発表したとき、『論語』年齢記事用語の悉皆調査と論証を行い、一冊の本にするようにと古田氏はいわれた。たとえば、平成22年(2010)「八王子セミナー」で次の発言があった。
「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」(古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、2014年。66~67頁)

 当時のわたしには氏の期待に応えられるだけの能力はなく、その課題に取り組める環境にもなかった。

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