鞠智城7世紀中葉造営の理由
鞠智城造営を白村江戦以後の665年としてきた従来説に対して、岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が大化改新後の7世紀中葉造営説を発表されました。わたしも鞠智城の従来編年が不適切であり、造営時期を少なくとも20〜30年遡らせるべきと指摘していました。ですから、岡田さんの新説には基本的に賛成なのですが、その造営理由を南九州の対隼人経営のためとされたことには賛成できません。
岡田さんは7世紀中葉において、『日本書紀』などに対隼人経営に関する史料根拠が皆無であることを認められており、記事が無い理由を「鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」とされているのですが、いかにも苦しい言い訳としか聞こえません。ここに大和朝廷一元史観の宿痾と限界を見るのです。
それでは鞠智城7世紀中葉造営の理由を古田史学(多元史観・九州王朝説)の立場からはどのような理解が可能となるでしょうか。まず7世紀中頃の九州王朝の大事業として「評制」の開始と難波副都(前期難波宮)の造営があげられます。唐や新羅の軍事的圧力に対抗するため、全国に中央集権的行政組織「評制」を施行し、その長官の「評督」や「助督」を任命しました。それと「副都詔」を発布し、まず難波に副都を造営しました。宮殿(前期難波宮)の完成は九州年号の白雉元年(652)です。
またこの時期に北方の蝦夷国との戦いやその準備(柵の造営)も同時に行っています。その記録として『赤淵神社縁起』(兵庫県朝来市)も発見されました(「洛中洛外日記」604話・606話・608話・610話・611話・613話・614話・615話・618話・690話を参照、「赤淵神社」として一括掲載)。こうした九州王朝の状況から推測しますと、鞠智城造営の目的として次のことが考えられます。
1.唐・新羅の軍事的脅威に対応した太宰府の後方拠点(首都陥落に備えた臨時副都的性格)の確立。
2.九州中南部の評制施行の一環としての行政拠点の確立。
これ以外にも目的があったかもしれませんが、多元史観・九州王朝説に立てばこのような仮説が考えられます。従って、こうした九州王朝の大事業が『日本書紀』に記されていないのも当然かもしれません。
ちなみに、「隼人」は親九州王朝勢力ですから、対隼人経営のための鞠智城築城説は成立しません。『続日本紀』に見えるような、九州王朝末期(701年前後頃)に「隼人」が大和朝廷と激しく戦っていることも、九州王朝残存勢力が南九州で抵抗した痕跡であり、南九州が九州王朝にとって安定した支持勢力領域であったことの証拠に他ならないのです。ですから、鞠智城には「隼人」との戦闘に備えるような巨大防御施設(神籠石山城・水城など)が併設されていないのです。この点、大野城や水城・神籠石山城などの巨大防御施設で守られている太宰府とは地理的政治的条件が異なっていると言えるでしょう。