「丁亥年」刻書紡錘車の新視点
昨年12月、佐賀県小城市の丁永(ちょうえい)遺跡から日本最古の刻書紡錘車が出土したことが、新聞などで報道されました。直径4.58cm、厚さ0. 75cmの紡錘車の片面に、「丁亥年 六月十二日 □(木へん+是)十□□」(□は判読困難な字)と刻書されており、一緒に出土した土器片などから、この 「丁亥年」は687年のことと考えられています。
また、刻書紡錘車のほとんどが関東地方で出土していますから、関東地方特有の風習であり、小城市から出土したこの紡錘車も、関東からこの地に派遣された防人がもたらしたものと見てよいと思われます。新聞でもそのように報じられています。
今回わたしは、刻書の内容とその史料性格に着目しました。刻書の前段は年月日、後段は人名と思われます。「亦(木へん+是)十万呂」(いて・とまろ)と 判読している新聞もありましたが、人名であることは確かと思われます。東京都日野市から、同じく刻書紡錘車で、「和銅七年十一月二日 鳥取部直六手縄」と、年月日と人名が刻書されたものが出土していますから、これと同類の史料性格なのです。
それではこの「年月日+氏名」という文字情報は何を意味しているのでしょうか。思うに、人間にとって名前と同様に大切な年月日は生没年でしょう。特に生きている人間には生年が大切な日となります。したがって、この刻書紡錘車の年月日と氏名は、持ち主の名前と誕生日ではないでしょうか。この二つがあれば、 古代において出身地の戸籍と照合することにより、みずからの身分証明書の役割を果たすことができるのです。丁亥年(687)であれば、既に庚午年籍 (670)が完成している時期ですから。
更に想像を逞しくすれば、この刻書は、母親が生まれたわが子の生年月日と名前を刻んだもので、ひもを通して子供の首に下げてあげたのかもしれません。やがて、その子が青年となり、防人として関東から九州へむかうことになった時、母親の形見として、そして自らの身分証明として刻書紡錘車を持参したのです。 おそらく、この防人は生きて故郷に帰れなかったものと思われます。佐賀県小城市で没したため、この地から紡錘車は出土したのでしょうから。
なお、この刻書紡錘車出土のことは、福岡市の上城誠(本会全国世話人)より教えていただきました。