第681話 2014/03/21

「古典的名作」を観る、読む。

 わたしは恥ずかしながら、どちらかというと古典的文学作品や名作を観たり読んだりするほうではありませんでした。さすがに還暦が近づいてきましたので、少しは人類史上の古典的名作に触れる機会をつくろうと、一念発起しました。とは言え、いきなり長編大作を読む自信もなかったので、昨年の春に公開された映画「アンナ・カレーニナ」を観ました。ロシア文学の最高傑作といわれているトルストイの恋愛小説を、舞台劇形式で見事に映画化された作品でした(ジョー・ライト監督、イギリス映画)。また、主演女優のキーラ・ナイトレイがとても美しく、悲しく映し出されており、最後まで見入ってしまいました。そして何よりも、登場人物の発する一言一言が深く胸に残り、原作の素晴らしさを感じさせられました。
 もう一つ挑戦した古典的名作は、マックス・ウェーバー著の『職業としての学問』です。こちらは学生時代に挑戦しましたが、難しすぎて全く歯が立たなかった記憶があります。あれから40年もたっていますので、少しは理解できるのではないかと、岩波文庫版を購入し読んでみましたが、やはりダメでした。その難解な表現のために、ウェーバーの真意をなかなか正確に深く読みとることができません。成長していない自分が少し悲しくなりましたが、それでも次のような部分には、その言わんとする本質とはおそらく無関係に共感を覚えました。

 「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにこののちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。(中略)ある写本のある箇所について『これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である』として、なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え--これのない人は学問に向いていない。そういう人はなにかほかのことをやったほうがいい。いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。」(岩波文庫『職業としての学問』22頁)

 この本は、今から約100年前の1919年にミュンヘンで学生たちに向けて行った講演の記録です。この部分を読んで、わたしが『古事記』写本の「治」や「沼」について「なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中」しているのは、学問に向いている証かもしれないとひとり喜んでいます。
 まだまだ不十分な理解にとどまっていますが、ウェーバーの『職業としての学問』から、多くの示唆を得ることができそうです。どなたか、この本についての解説を関西例会で講義していただければ、有り難いと思います。

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