第256話 2010/05/02

正倉院の中の「評」史料

 今日は久しぶりに京都府立総合資料館に行って来ました。自転車で鴨川沿の道を走りましたが、比叡山や如意ヶ嶽(大文字山)の新緑が青空に映えて、とても快適でした。資料館では都合三時間ほど図書を閲覧したのですが、最近の論稿なども含め、収穫が大でした。
 特に今回の目的の一つは、東野治之氏の『日本古代木簡の研究』(昭和58年)の閲覧でした。というのも、正倉院に「評」史料が存在するという論文を以前同書で読んだ記憶があったので、その論文を再確認したかったからです。
 ご存じのように大和朝廷は『日本書紀』や『万葉集』などで、700年以前の「評」を「郡」に書き換えており、故意に評制史料の隠滅をはかったと考えられてきました。しかし、膨大な評制史料である庚午年籍に関しては近畿天皇家は長期にわたり保存・書写を命じており、評制史料の取扱いは一様ではなかったのでは ないかと、わたしは考えてきました。古田先生からは正倉院文書に評制史料がないという指摘も受けていたのですが、東野氏により、正倉院内にも「評」史料が存在することが報告されていたので、同論文に深い関心を持っていたのです。
 その論文は「正倉院武器中の下野国箭刻銘についてーー評制下における貢進物の一史料」というもので、正倉院に蔵されている50本の箭(矢)に「下毛野那須 郷※二」※(仝のエが干)という刻銘があり、従来、「那須郷」と判読紹介されていたのは誤りで、正しくは「奈須評」であることを字形や他の根拠から論証され、この50本の箭は評制の時代のものであるとされたのです。
 確かに、「下毛野」という国名の次にいきなり「那須郷」とあるのは不審です。やはり国名の次には「郡」か「評」であるのが通例です。字形に至ってはとても 「郷」と読めたものではなく、他の木簡の字形と比較しても「評」と読むべきものでしたから、東野氏の指摘には説得力があります。
 東野氏はこの箭以外にも正倉院に「評」史料があることを紹介されています。それは『書陵部紀要』29号(1978年)に報告されている「黄施*幡残片」の墨書で、「阿久奈弥評君女子為父母作幡」と「評」銘記されています。この幡はその様式や評制の時代という点から見て。法隆寺系の混入品と見られています。 このように正倉院には「評」史料が現存しており、やはり大和朝廷での「評」史料の取扱は一様ではなかったと考えざるを得ないのです。
  施*は、方偏の代わりに糸偏。JIS第3水準ユニコード7D41

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