新潟県「城の山古墳」出土の盤龍鏡
先日、四国出張の際に高松市で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人・会報編集担当・会計担当)と夕食をご一緒しました。西村さんは古田先生のご近所(向日市)から高松市に転居されたので、同地でお会いすることとなりました。研究情報の交換や、「古田史学の会」の運営などについて意見交換を行い、楽しい一夕となりました。
その翌朝、ホテルで読んだ読売新聞(2013/01/16)に「新潟の古墳に中国製銅鏡」という記事がありました。あいもかわらず大和朝廷一元史観により解説された内容で、「大和政権からもたらされた可能性が高い」とか「日本書紀の記述より300年も前に、大和政権の影響がこの地に及んでいた」などの記事が並んでいました。
同紙によれば、胎内市の「城の山」古墳(四世紀前半)から昨年出土した銅鏡が、後漢(1世紀後半~2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られた中国製の盤龍鏡(直径約10cm)だったとのことです。この記事が正しければ、九州王朝説の立場から次のような推察が可能です。
まず、この古墳の主は、魏晋朝と交流があり大量の中国鏡を授与された邪馬壱国・九州王朝の影響下にあったと考えられます。
次に、この古墳の主(一族)は、後漢・魏晋代の鏡を九州王朝から下賜され(その時期は不明)、それを4世紀まで持ち続け、墓に埋納したのですから、少なくとも古墳時代には九州王朝を盟主として仰いでいたはずです。
その4世紀前半という古墳の編年からすれば、関東よりも新潟の方がより早く九州王朝の影響下に入った可能性が考えられます。関東が九州王朝の支配下に入ったのは、常陸国風土記に見える「倭武天皇」伝承から判断して、5世紀頃と思われます。
出土した銅鏡が、近畿を中心に分布する三角縁神獣鏡ではなく、盤龍鏡であることも留意すべき点でしょう。
おおよそ以上のように新聞記事から推察しましたが、最終判断は実物や他の出土品等を見た上で行うべきこと、言うまでもありません。新聞紙面などで「大和朝廷の影響」というような記事があれば、「九州王朝の影響」と読み変えれば、より多元的古代の真実に近づけるのではないでしょうか。