井上信正さんへの三つの質問(1)
6月18日にエル大阪で開催した「古田史学の会」古代史講演会には太宰府条坊研究の第一人者、井上信正さん(太宰府市教育委員会)をお招きし、ご講演いただきました。太宰府条坊などの最新考古学成果などについて講演されたのですが、質疑応答ではわたしからは次の三つの質問をさせていただきました。
〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。
〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。
〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
この三つの質問のうち、太宰府条坊都市造営時期に関しての通説や井上説の矛盾が端的に現れているのが質問1のテーマです。このことは井上さんも理解されており、お互いに相手の見解や立場を理解した上での質疑応答です。井上さんの回答は次のようなものでした。(つづく)