白雉改元の宮殿
『日本書紀』孝徳紀白雉元年二月条(650)に見える白雉改元の儀式が、実は九州年号の白雉元年二月(652)であった ことを拙論「白雉改元の史料批判」で明らかにしたのですが、その改元の儀式が行われた宮殿が、当初どこかわかりませんでした。というのも、『日本書紀』孝徳紀で難波宮の完成を白雉三年九月(652)とされているので、孝徳紀白雉元年(650)では未完成なので、白雉改元の儀式がどの宮殿で行われたのかわからなかったのです。
ところがこれはわたしの「錯覚」でした。「白雉」は九州年号ですから、改元年(元年)は650年ではなく652年なのです(『二中歴』などによる)。 従って、652年9月に完成したと記されている「前期難波宮」ですから、その年の2月に改元の儀式を完成間近の「前期難波宮」で行うことが可能だったので す。このことに気づいてからは、白雉改元の壮大な規模で行われた儀式の場所が確定できたのでした。
孝徳紀白雉三年九月条(652)には宮殿の完成を次のような表現で記されています。
「秋九月に、宮造ることすでに終わりぬ。その宮殿の状(かたち)ことごとくに論(い)うべからず。」
今までにないような宮殿であると記されているのですが、これこそ7世紀中頃としては最大規模で初めての朝堂院様式を持つ前期難波宮にふさわしい表現なのです。(つづく)