第536話 2013/03/12

白雉改元の宮殿(2)

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年二月条(650)に見える白雉改元の儀式(実際は九州年号の白雉元年二月(652)記事の年次をずらしての盗用。詳しくは拙論「白雉改元の史料批判」をご参照ください。『九州年号の研究』所収)が他に類例がないほど詳述されており、その宮殿の規模や様式を推定することができます。その儀式の様子が次のように記されています。要旨のみ意訳しました。

 (a)2月15日、朝廷の隊伎、元日の儀のごとし。左右の大臣・百官ら「紫門」の外に四列にならぶ。
 (b)白雉を乗せた輿とともに、百済の君・豊璋らを引き連れて「中庭」に至る。
 (c)別の四人が輿をとり「殿」の前に進む。
 (d)伊勢王や左右の大臣ら五人が輿をとり、「御座」の前に置く。
 (e)天皇が皇太子を招き、ともに白雉を見る。

 おおよそ、以上のような儀式が宮殿で行われたのですが、これらの記事から白雉改元の宮殿がかなり大規模なもので、「前庭 (紫門の外)」「紫門」「中庭(朝堂院か)」「殿(紫宸殿か)」「御座」を有すことがわかります。次々と輿をとる人が交代することからも、それぞれの場所 が一定の広さを有していることも推察できます。また、「紫門」とあることから、その奥には「紫宸殿」があると思われ、この宮殿が「北を尊し」とする北朝様 式であることもわかります。

   こうした規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿は、日本列島広しといえども前期難波宮しか発見されていません。従って、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、百済の君(王子)豊璋を人質として預かっていた九州王朝・倭国の天子が、ここで白雉改元の儀式を執り行ったと考えざるを得ないのです。(つづく)

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