白雉改元の宮殿(7)
『日本書紀』孝徳紀に初めて現れ頻出する「賀正礼」ですが、その舞台が九州王朝の副都前期難波宮であり、同じ難波に邸宅 (難波長柄豊碕宮)を持つ孝徳は正月朔(ついたち)の「賀正礼」に参列し、その日の内に自らの邸宅に帰還していたことを第541話で指摘しました。この 「賀正礼」ですが、孝徳紀の次の斉明紀になると記載がありません。次いで、天智紀・天武紀・持統紀に次の「賀正礼」記事が見えます。
○天智十年(671)「十年の春正月の己亥の朔庚子(二日)に、大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣と、殿の前に進みて、賀正事奏(もう)す。」
○天武四年(675)「(正月)丁未(二日)に、皇子より以下、百寮の諸人、拝朝す。」
○天武五年(676)「五年の春正月の庚子の朔に、群臣百寮拝朝す。」
○天武十年(681)「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」
○天武十二年(683)「十二年の春正月の己丑の朔庚寅(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
○天武十四年(685)「十四年の春正月の丁未の朔戊申(二日)に、百寮、拝朝庭す。」
○天武朱鳥元年(686)「朱鳥元年の春正月の壬寅の朔癸卯に、大極殿に御して、宴(とよあかり)を諸王卿に賜う。」
○持統三年(689)「三年の春正月の甲寅の朔に、天皇、万国を前殿に朝(まうこ)しむ。」
○持統四年(690)「四年の春正月の戊寅の朔に、(略)皇后、即天皇位す。(略)己卯(二日)に、公卿百寮、拝朝すること、元会儀の如し。
以上のような「賀正礼」記事が見えるのですが、孝徳紀のように元日に行われた「賀正礼」は天武五年、朱鳥元年、持統三年 だけで、他は正月の二日か三日に行われています。しかも、朱鳥元年は「拝朝」「拝朝廷」という表記がなく、本当に「賀正礼」記事としてよいのか疑義も残り ます。それでは二日や三日に「賀正礼」を行った年の元日は何をしていたのでしょうか。
この疑問を推測する上で参考になるのが、天武十年(681)の記事で、「十年の春正月の辛未の朔壬申(二日)に、幣帛を諸神祇に頒(あかちまだ)す。癸 酉(三日)に、百寮の諸人、拝朝庭す。」とあるように、三日の「賀正礼」の前日、二日に神祇に幣帛を奉納していることです。すなわち、より権威が大きいも のに対しての「礼」を自らへの「賀正礼」よりも優先させているのです。
それでは近畿天皇家が自らへの「賀正礼」よりも優先すべき行事とは何でしょうか。九州王朝説に立てば、当然のこととして九州王朝への「賀正礼」しかあり ません。孝徳が九州王朝の副都前期難波宮へ「賀正礼」に赴いたように、その後の近畿天皇家も九州王朝への「賀正礼」を元日に行ったと考えられるのです。で すから、『日本書紀』では元日に行われていた九州王朝への「賀正礼」記事をカット、あるいは、自らへの「賀正礼」であるかのような編集を行ったのです。そ してその痕跡が正月二日や三日の「賀正礼」記事だったのです。(つづく)