第1488話 2017/08/26

須恵器窯跡群の多元史観(1)

 このところ太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸須恵器窯跡群(大野城市・他)に興味を持って、須恵器窯跡群について勉強を続けています。古代において代表的で最大規模の須恵器窯跡群として堺市の陶邑窯跡群は有名ですが、それに次いで規模が大きいのが愛知県名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群とされています。これらは三大須恵器窯跡群遺跡とも称されており、古代(古墳時代〜)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させます。
 とりわけ陶邑窯跡群は近畿の巨大古墳群を造営した権力者に須恵器を供給していたのですが、このことが大和朝廷一元史観の考古学的根拠の一つとなっています。さらに一元史観によれば陶邑窯跡群から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようです。その上で、陶邑窯跡群出土須恵器の編年がそのまま各地域の須恵器編年に援用されています。
 九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したと考えたいところです。規模も北部九州の窯跡群が最大規模であってほしいところですが、現在の発掘結果では堺市等の陶邑窯跡群が最大です。
 九州王朝や近畿天皇家の中枢領域にそれぞれ巨大窯跡群が存在することを考えると、東海の猿投山窯跡群にも対応すべき九州王朝や近畿天皇家に匹敵する権力者がいたと考える必要がありそうです。(つづく)

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