白雉改元の宮殿(9)
『養老律令』の「儀制令」には「賀正礼」について次のような条文があります。
「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率いて、庁に向かいて朝拝せよ。訖(おわ)りなば長官は賀を受けよ。」
都から遠く離れた国司たちに、元日は都の大極殿(庁)に向かって拝礼し、その後に部下からの「賀」を受けよ、という規定です。おそらくは九州王朝律令も同様の規定があったと想像できますが、この規定を孝徳や天武に当てはめると、九州王朝の副都前期難波宮のご近所(難波長柄豊碕宮)に住んでいた孝徳は、元日に前期難波宮で行われる「賀正礼」に出席していたでしょうから、『日本書紀』孝徳紀には元日の「賀正礼」記事が記されることとなります。
たとえば、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
ここでは「賀正礼を受ける」のではなく、味経宮に行き「賀正礼を観る」とあります。すなわち、味経宮(前期難波宮か)で孝徳は「賀正礼」を受ける立場ではなく、「賀正礼」に参加して、それを「観る」立場だったのです。孝徳紀のこの記事は、孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していたのです。 ちなみに孝徳紀の他の「賀正礼」記事も、「賀正礼を受ける」という表現はなく、「賀正す」というような、何かよくわからない表現です。これも、「賀正礼を受ける」のは九州王朝の天子だったからにほかなりません。
天武紀になると、前期難波宮から離れた飛鳥に天武らは住んでおり、九州王朝の宮殿(前期難波宮または太宰府)での天子への「賀正礼」は欠席し、飛鳥から 九州王朝の宮殿に向かって拝礼していたことでしょう。そして、天武紀では「賀正礼」は翌二日の行事となる例が多くなっていることから、元日は九州王朝の都へ向かって拝礼し、翌日の二日に自らの部下からの「賀正礼」を受けていたと推察されます。おそらくは九州王朝律令にそのような規定があったのではないでしょうか。
そして、701年以降の『続日本紀』の時代になって、文字通り誰はばかることなく元日に「賀正礼」を受ける身分(列島内ナンバーワン)になったのです。
以上、「白雉改元の宮殿」の考察と「賀正礼」の史料批判により、七世紀末王朝交代期の復元が少しですができたように思われるのです。(完)
2014.2.23 「職員令」は「儀制令」の間違いでした。訂正済み