「天武朝」に律令はあったのか(3)
近畿天皇家が「天武朝」のときには自前の律令を持っていなかったことを説明しましたが、前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする論理性と考古学的痕跡について説明します。
まず大枠の論理として、平城宮・藤原宮と前期難波宮の規模・様式の対応という視点があります。王朝交代後の平城宮や藤原宮が、大宝律令・養老律令により全国統治した大和朝廷の王宮・官衙遺構であることは論を待たないと思います。そうであれば、律令官制による全国統治に必要な規模と様式を備えていたのが平城宮と藤原宮であったと理解できます。このことにも反対意見は出ないでしょう。したがって、平城宮・藤原宮とほぼ同じ規模で同じ朝堂院様式を持つ前期難波宮も「律令官制による全国統治が可能」な宮殿・官衙遺構と見なしうるということになります。
もしこの論理性に反対されるのであれば、その反対論は「律令も持たず、全国統治もしていなかった近畿天皇家が、必要もなくなぜか突然に列島内最大規模の王宮を造営した」ということになります。更に言えば、日本列島の代表王朝であった九州王朝(倭国)は自らの王宮(太宰府)よりも大規模な前期難波宮を近畿天皇家が造営することを咎めることもなく、また造営にあたり各地から「番匠」「工人」を徴用したことも許したということになります。このような歴史解釈は、古田先生の九州王朝説を是とするわたしには到底理解も賛成もできません。(つづく)