『論語』二倍年暦説の論理構造(2)
わたしが二倍年暦の研究に本格的に取り組んだのは2000年頃からでした。そのきっかけは、仏典中の里単位の変遷の調査をしていたときに読んだ鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』に、二倍年暦でなければあり得ないような記事(「信解品第四」の長者窮子の比喩)に気づいたことでした。更に原始仏教経典(『長阿含経』など)やパーリ語で伝わった仏典中に二倍年暦と考えざるを得ない長寿年齢(百歳、百二十歳など)や説話が少なからず存在していることも確認しました。
また、仏陀の没年(実年代)について、北伝(インド・中国)仏教と南伝(セイロン)仏教では年代差があることから、この現象も一倍年暦で伝えられた北伝(前383年没)と二倍年暦を逆算してより古く伝えられた南伝仏教(前483年没)との差に基づくとすることで説明できることも判明しました。これらの発見を「仏陀の二倍年暦」(『古田史学会報』51号・52号、2002年8月・10月)で発表しました。
学問の論証方法に関することですが、ある史料に長寿年齢、たとえば70歳とか80歳の記述があった場合、それを根拠に二倍年暦の証拠とするには論証上安定感に欠けます。というのも、古代においてもたまたま超長生きした人がいた可能性もある、という批判に応えにくいからです。これが100歳や120歳であれば、いくらなんでも古代でそれほど長生きできるはずがないという一般的常識論が有効となり、120歳とあるが半分の60歳とする方がよいという理解が有力となります。これは「仏陀の二倍年暦」で紹介したように、仏典に見える長寿記事を根拠としての実証が成立するからです。
他方、仏陀没年において大きく異なる二説が発生した理由として、二倍年暦と一倍年暦のそれぞれの計算方法から発生したとする説明が、誤記誤伝とするよりも合理的であるという論理的証明(論証)も成立しました。こちらは論理性の問題ですから、「たまたま長生きの人がいた」という類の批判を排除できます。
このように、わたしの古典における二倍年暦の当否の研究は、論証をより重視するという学問の方法を意識して行ったものです。論文発表後に、「古代でも長生きの人がいた可能性を否定できない」という批判が度々なされたのですが、それらはわたしが強烈に意識した学問の方法への無理解による批判と言わざるを得ませんでした。(つづく)