文字史料による「評」論(7)
文字史料による「評」論と題して、史料事実や史料根拠を明示しながら、九州王朝の「評制」についての考察を続けてきました。その最後として、『日本書紀』の中に見える「評」について触れたいと思います。
『日本書紀』は「評」を「郡」に書き換えた「郡制」史料ですが、例外のような「評」の記事があります。継体二四年(530)条の次の記事です。
「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背の評に迎へ討つ。背の評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条
この記事について、古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、336頁)において、次のように説明されています。
「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」
さらに、「評」の縁源について次のように指摘されています。
「『宋書』百官志によると、秦以来、『廷尉』に『正・監・評』の官があり、軍事と刑獄を兼ねた。魏・晋以来は、『廷尉 評』ではなく、ストレートに『評』といったという。すなわち、楽浪郡や帯方郡には、この『評』があって、中国の朝鮮半島支配の原点となっていたようであ る。」
この解説から、「評制」は中国の軍事と刑獄を兼ねた行政制度に縁源があったことがわかります。このことを九州王朝(倭 国)は当然知っていたはずですから、7世紀中頃に自らの支配領域に「評制」を施行したとき、その主たる目的は中国に倣って「軍事と刑獄を兼ねた行政制度」 確立であったと考えても大過ないのではないでしょうか。すなわち、7世紀中頃の朝鮮半島での、唐・新羅対倭国・百済の軍事的緊張関係の高まりから、「評 制」を全国に施行(天下立評)したものと思われます。さらに主戦場となる朝鮮半島や朝鮮海峡から離れた摂津難波に副都(前期難波宮)を造営したのです。まさに「難波朝廷天下立評」(『皇太神宮儀式帳』)です。
このように、「軍事行政」としての「評」設立とその「評制」の施行拠点であり主戦場から遠く離れた摂津難波への副都(難波朝廷)造営は密接な政治的意図で繋がっていたのです。