第1756話 2018/09/22

7世紀の編年基準と方法(4)

 太宰府出土の「戸籍」木簡の成立年を685〜700年まで絞り込むことができると説明しましたが、それは二つの先行研究の成果によっています。一つは木簡に記された「嶋評」という「評制」が7世紀中頃に始まり700年まで続いたとする通説が多くの先行研究の結果により成立していること、二つ目は「進大弐」という位階が『日本書紀』天武14年条(685年)に制定(48等の位階)されたとする記事があり、この記事が信頼できるとする先行研究です。
 「評制」が7世紀中頃に開始されたとする根拠については拙論「『評』を論ず -評制施行時期について-」(『多元』145号、2018年4月)で詳述していますので、ご参照ください。また、「評制」が700年に終わり、翌701年から「郡制」に替わったことは、藤原宮などからの出土木簡により確認されています。
 『日本書紀』天武14年条(685年)の位階制定記事が信頼できるとする理由についても諸研究がありますが、次の出土木簡を紹介し、説明します。市大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記載があります(210頁)。
 「本位進大壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進大壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「進大壱」も天武14年に制定された位階制度です。この木簡から、大宝元年(701年)〜二年に制定された『大宝律令』による新位階制度へ変更されたことがわかります。従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土「戸籍」木簡も7世紀末頃のものと判断できるのです。
 更に那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年)の「追大壹」叙位記事も天武14年(685年)制定の位階であり、7世紀末にこれら位階が採用されていたことがわかります。このように、藤原宮出土木簡や那須国造碑などのような同時代史料により、『日本書紀』天武14年の位階制度制定記事が歴史事実と見なして問題ないとする通説が成立しています。
 こうした先行研究の成果により、太宰府出土「戸籍」木簡の編年を685〜700年とする判断が妥当とできるわけです。一元史観の「戦後実証史学」は、決して『日本書紀』の記述を無批判に受け入れて「成立」しているケースだけではないのです。
 なお、付言しますと、一元史観では以上の編年や考察で一段落するのですが、多元史観・古田説ではここから更にこの位階制度の制定主体が『日本書紀』にあるように近畿天皇家の天武でよいのか、九州王朝の天子によるものなのかという研究課題が待ち構えています。(つづく)

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