シルクの国、邪馬壹国
今日は新幹線「つばめ」で東京から山形市に向かっています。車中においてある無料の雑誌「トランヴェール」6月号の特集記事は「山形発! Japanese Silk 新時代」というもので、山形県各地の養蚕業や絹織物の歴史や新商品について解説されていました。
「江戸中期、藩の財政再建策として始めた置賜地方。
紅花を京へ送り、紅花染の絹織物を得ていた村山地方。
廃藩置県で失業した旧藩士の救済から出発した庄内地方。
山形の絹産業の歴史を地域の特徴と共にひもとく。」
というリード文で始まる解説は、とても勉強になりました。わたしも色素・染料メーカーのケミストですので、シルクの古代染色技法の復元研究など思い出深い経験があります。機会があれば紹介していきたいと思います。
いわゆる「邪馬台国」論争で畿内説というものがありますが、実は畿内説は学問的仮説、すなわち「学説」としての体をなしていません。せいぜい珍説か臆説に過ぎないのです。何故なら、文献史学における学説や仮説として成立する上での必須条件である史料根拠が畿内説にはないからです。『三国志』倭人伝のどこをどう読んでも畿内説の史料根拠といえる記事はありません。あるのなら指摘してみてください。
もし原文にある邪馬壹国と畿内「大和」の最初の二音が「やま」で共通するということが史料根拠と言うのなら、山形市の「やま」を「根拠」にした「邪馬台国」山形説のほうがよっぽど畿内説よりも合理的です。このことは別の機会に詳論しますが、倭人伝には邪馬壹国を畿内と特定できる根拠、たとえば位置(方角や距離による地域特定)、たとえば文物(考古学的出土物による地域特定)など皆無です。ですから畿内説論者は倭人伝の原文を都合のいいように改訂しまくって(文献史学の「禁じ手」である史料改竄を行って「史料根拠」にするという)、珍論・奇論をくりかえしているのです。
倭人伝に見える倭国や邪馬壹国の象徴的文物にシルク(絹)があります。倭人伝には「蚕桑絹績」という記事があり、「倭錦」「異文雑錦」など「錦」と記されているのがシルクの織物ですが、弥生時代の遺跡からシルクが出土するのは博多湾岸を中心に吉野ヶ里遺跡を含む北部九州で、畿内の弥生時代の遺跡からは出土が知られていません。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説など成立しようがないのです。
考古学が学問であり、倭人伝研究の文献史学が学問であるのならば、倭国の中心地、邪馬壹国の候補地は博多湾岸しかありえません。畿内説など仮説としてさえも成立しません。従って、「邪馬台国」畿内説などをまじめに唱えている論者は、いくら「学問の自由」とは言え、全く学問的でなければ、「学者」とよぶことさえもはばかれると言わざるを得ません。この問題、「畿内説は学説ではない」ということについて、これからも引き続き論じます。