第2000話 2019/09/26

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(4)

 『二中歴』「都督歴」冒頭の次の記事を根拠に、わたしは「評督」の上位職として、筑紫に「都督」もいたという可能性について考えて続けてきました。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 もしこの「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649)」に筑紫に「都督」がいたことになり、同時にその居所の「筑紫本宮」が筑紫の「都督府」と考えざるを得ません。そうすると『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」は、「評督」の上位職である「都督」がいた九州王朝による「筑紫都督府」と理解することが可能となります。
 この天智紀の「筑紫都督府」を巡っては、古田学派内でも九州王朝の「都督府」とする説と、白村江戦後に唐が倭国に置いた「都督府」とする説があり、今日まで論争が続いてきました。古田先生も両説の間を揺れ動かれたことがあるほどの難問ですので、用心深く検討を続けます。(つづく)

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