第755話 2014/07/29

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(5)

 森郁夫さんの『一瓦一説』を多元史観・九州王朝説の視点から読んでみますと、いろいろな問題が発見でき、なかなかの好著だと思います。中でも考えさせられたのが四天王寺創建瓦に関する部分でした。「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)などで紹介されてい る、法隆寺若草伽藍創建瓦と四天王寺創建瓦、そして前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘には、深く考えさせられました。
 森さんの指摘によれば、これら同笵瓦のなかでは、若草伽藍の瓦が最も鮮明な文様であり、四天王寺出土の同笵瓦は文様に傷や変形があるとのこと。すなわち 笵型(木製)の痛みが進んだ文様となっている四天王寺瓦が、文様の鮮明な若草伽藍瓦よりも笵型の使用時期が後である痕跡を示しているとされました。考古学的事実に基づいた判断(近畿天皇家一元史観というイデオロギーとは一応無関係に成立)ですから、説得力があります。
 法隆寺若草伽藍は『日本書紀』によれば推古15年(607)に創建され、天智9年(670)に消失したとあります(現・法隆寺は九州王朝滅亡後の和銅年間頃に他から移築されたもの)。四天王寺(『二中歴』では「天王寺」)の創建は『二中歴』「年代歴」によれば九州年号の倭京2年(619)とあり、同笵瓦 の先後関係と一致しています。
 『二中歴』の記事から難波天王寺(四天王寺)は九州王朝の「聖徳」(利歌彌多弗利か)により建立されたと考えていますので、そうすると近畿天皇家の「聖 徳」(厩戸皇子)が建立したとされる法隆寺若草伽藍創建に使用された瓦当笵を九州王朝は天王寺創建瓦に再利用したこととなります。
 こうした同笵瓦の状況から、法隆寺若草伽藍と天王寺との関係性や、瓦当笵の使い回しなど九州王朝説の立場からどのような理解や説明が可能なのか、重要な課題です。ちなみに法隆寺若草伽藍の様式は天王寺と同様式の四天王寺式(南北に金堂や塔等が並ぶ)であることがわかっており、この一致も見落とせません。

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