第2045話 2019/11/21

『令集解』儀制令・公文条の理解について(5)

 木簡のように使用後の廃棄・再利用が想定されるものに〝王朝の象徴でもある崇高な年号〟を記すことを九州王朝は条令(式)などで禁止し、使用を許さなかったのではないかとわたしは考えていますが、同時に長期保管・永久保管が必要な文物などには九州年号使用を命じたり、使用を許していたと考えています。今回はこのことについて紹介します。
 九州王朝にも様々な行政文書・記録類があったはずです。特に戸籍や各種認証記録は長期保管が必要です。その最たるものが著名な「庚午年籍」(白鳳十年。670年、庚午の年に造られた戸籍)と呼ばれている基本戸籍です。九州王朝(倭国)の時代に造籍されたものですが、大和朝廷でも『大宝律令』などにより「永久保管」を各地の国司に命令しています。このような長期保管が必要な行政記録には九州年号が使用されたはずと、わたしは考えています。干支だけですと、60年ごとに同じ干支が巡ってきますから、60年以上の長期保管記録には干支だけではいつのことなのか不明となりますから、年号使用が不可欠と考えたのです。
 このことを支持する次の史料があります。『続日本紀』に見える九州年号記事として有名な聖武天皇の詔報です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)

 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせに対する聖武天皇の返答です。九州年号の白鳳(六六一〜六八三年)から朱雀(六八四〜六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。同様に「庚午年籍」にも造籍年次が「白鳳十庚午年」というような九州年号で記されていたのではないでしょうか。(つづく)

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