三十年ぶりの鬼室神社訪問(5)
紹介してきた瀬川欣一さんによる鬼室集斯墓碑江戸期偽造説は、坂本林平の『平安記録楓亭雑話』や司馬江漢の『江漢西遊日記』を史料根拠として実証的に成立しており、簡単には否定し難い有力なものでした。しかし、それでも古田先生とわたしは論理的考察(論証)の結果から、偽造説に納得できませんでした。それは次のような考え方によります。
偽造説では、偽造者がわざわざ疑われるような『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記したりするだろうか、という基本的な疑問をうまく説明できない(『日本書紀』では朱鳥は元年で終わっている)。すなわち、偽造者を『日本書紀』天智紀の鬼室集斯を知っている博学な知識人とする一方で、『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記す「うかつ者」とする、矛盾した人格に仕立て上げる「無理」を偽造説では回避できません。
従って、わたしたちは論理の上から、同墓碑は七世紀末に成立した同時代金石文と見て問題ないという立場にこだわったのです。この研究姿勢こそ、村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」ということに他なりません。そして、この論証を支持する史料根拠を探し求めました。そこで、「発見」したのが司馬江漢の『西遊旅譚』です。
司馬江漢は『江漢西遊日記』とは別に、この時の旅行記を『西遊旅譚』として刊行しています。同書は旅行から帰った翌年の寛政二年(一七九〇)四月に出版のための原稿が成立しており、その年に出版されているようです。その『西遊旅譚』の日野に立ち寄った当該記事には、この八角石について「人魚墳八方なり文字あれども見えず」と記しているのです。すなわち、文字があったと司馬江漢は述べているわけで、「文字見えず」あるいは「文字ナシ」とした『江漢西遊日記』とは異なっています。史料の信憑性から見れば、旅行から帰った翌年に成立した『西遊旅譚』に比べ、『江漢西遊日記』の成立は文化十二年(一八一五)、『西遊旅譚』に遅れること二五年であり、司馬江漢最晩年のものです(司馬江漢の没年は文政元年、一八一八)。したがって、旅行と刊行時期が近い『西遊旅譚』の方が信頼性が高いのです。
こうした史料成立状況から見れば、江漢晩年発刊の『江漢西遊日記』の記事をもって、八角石に文字無しと決めつけるのは不適切です(この件については、後に紹介する胡口康夫氏の『近江朝と渡来人–百済鬼室氏を中心として』雄山閣刊、一九九六年十月、にも同様の指摘がなされています)。こうして、江戸期偽造説の根拠の一つを否定できる史料事実を見つけ出したのです。(つづく)