造籍年間隔のずれと王朝交替(3)
「白雉元年籍」(652)と「庚午年籍」(670)との間隔は18年であり、ちょうど六年で割り切れるため、九州王朝も6年ごとに造籍していたのではないかとしました。このことを確認するため『日本書紀』を調べたところ、孝徳紀に次の記事がありました。
「東国等の国司に拜(め)す。よりて国司等に曰はく、(中略)皆戸籍を作り、また田畝を校(かむが)へよ。」大化元年(645)八月五日条(東国国司詔)
「甲申(19日)に、使者を諸国に遣わして、民の元数を録(しる)す。」大化元年(645)九月条
「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。」大化二年(646)正月条(改新詔)
このように大化二年(646)に初めて造籍法を造れとの詔が出されています。その前年の八月には「皆戸籍を作」れと東国の国司に命じ、九月には諸国の「民の元数」を記録したと記されており、このとき初めての造籍があったことがうかがえます。この大化二年(646)は先に指摘した「白雉元年籍」(652)造籍の6年前です。従って、この大化元年・二年の記事も6年ごとの造籍が行われたことを示しているのではないでしょうか。
もしこの記事が九州王朝系史書によるものであれば、九州王朝は「大化二年(646)」(九州年号の命長七年)に初めての造籍を行い、その6年後の白雉元年(652)に2回目の造籍を実施し、その後も6年ごとに造籍し、白鳳十年(670)の「庚午年籍」まで造籍が行われたと推察できます。もしかすると、白鳳四年(664)については白村江戦敗北の翌年であり、敗戦の混乱により造籍が行われなかったかもしれません。というのも、この年の造籍を示す記事が『日本書紀』や後代史料に見えないからです。
「庚午年籍」(670)の造籍後も、「庚寅年籍」(690)まで造籍の史料痕跡が見えないことから、「庚午年籍」は九州王朝にとって最後の造籍であり、近畿天皇家にとってもその後の造籍作業のための基本戸籍であるため、『大宝律令』『養老律令』で「庚午年籍」の永久保存を命じたものと思われます。恐らく、672年の「壬申の乱」など、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に至る混乱で造籍が滞り、持統4年(690)に至ってようやく「庚寅年籍」が造籍されたものと思われます。この頃、近畿天皇家は国内最大規模の藤原宮(藤原京)の造営を開始しており、大宝元年(701)の王朝交替に向けて、着々と体制固めを進めていたことがわかります。
以上の考察の結果、6年ごとの造籍が律令で規定されたにもかかわらず、「庚午年籍」(670)と「庚寅年籍」(690)の間で造籍年間隔にずれが生じているのは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替があったことによるものと思われるのです。