古田武彦先生の遺訓(12)
厲王在位年にも二倍年齢の痕跡
「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟において、西周第9代国王の夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があり、二倍年暦の存在を前提としなければこのような史料状況は発生しないとしました。たとえば、『竹書紀年』や『史記』には夷王の在年数が8年とあり、『東方年表』(藤島達朗・野上俊静編)には16年とされています。そこで、『東方年表』が何を根拠に16年としたのかを調査したところ、在位16年とする史料として『太平御覽』卷85引『帝王世紀』、『皇極經世』、『文獻通考』、『資治通鑑前編』がありました。
夷王に加えて第11代の厲(れい)王にも同様の史料痕跡がありました。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後の「共和の政」が14年続き、厲王が亡命先で死亡して宣王に替わります。これらを合計した51年を『東方年表』は採用しています。
他方、『竹書紀年』(古本・今本)では厲王の在位年数を26年としています。
「二十六年、大旱。王陟于彘。周定公、召穆公立太子靖為王。共伯和歸其國。遂大雨。」『竹書紀年』厲王(注①)
このように、厲王が「陟」(亡くなる)して、「共和の政」を執っていた共伯和が自領に帰国したとあります。『史記』の在位年数と「共和の政」の合計51年が二倍年暦であれば、一倍年暦の25.5年に相当し、『竹書紀年』の26年に対応しているのです。
夷王のケースと同様に『竹書紀年』は一倍年暦(一倍年齢)に書き改められていると理解せざるを得ません。『竹書紀年』は出土後(注②)に散佚し、清代になって佚文を編集したものであり、おそらくはその編纂時に夷王と厲王の在位年数が一倍年齢に書き換えられているわけです。あるいは、出土した竹簡の原文が既に書き換えられていた可能性もあります。いずれにしても、周代において周王の在位年数が二倍年暦で記録されていたと考えざるをえません。(つづく)
(注)
①中國哲學書電子化計劃『竹書紀年』《厲王》
https://ctext.org/zhushu-jinian/li-wang/zh
②西晋(265~316年)時代に出土。