第855話 2015/01/21

『三国志』のフィロロギー「長里混在の理由」

 『三国志』編纂時代(西晋朝)の公認里単位は短里であっても、漢代の公認里単位である長里が混在しうる論理性については、既に述べた通りですが、それでは『三国志』の中に長里が混在するとしたら、それはどのようなケースでしょうか。今回はこの問題について学問的・論理的に考察したいと思います。なお、ここでわざわざ「学問的・論理的」と断ったのには理由があります。
 「古代の中国人などいいかげんだから、史書に短里や長里が混在しても不思議ではない」として、「『三国志』は里単位など無視・無関心に編纂された」とする「論法」や「理解」で済ませてしまうケースがあるからです。これは倭人伝の「邪馬壹国」は「邪馬台国」の間違い、「南」は「東」の間違いとして、全て古代中国人(陳寿や書写者)のせいにし、自説に都合よく原文改訂をして済ませてきた従来の古代史学界と同じ「論法」であり、学問的ではありません。歴史学は学問ですから、「どこかの誰かが間違えたのだろう」などという非学問的な「論断」ではなく、学問的・論理的に考えて論証しなければなりません。
 ということで、『三国志』にもし長里が混在するとすれば、どのような場合なのかを学問的・論理的に考えてみます。先日の関西例会でも正木裕さんから、同様の問題提起があり、長里が混在する場合の理由についての報告がありました。そのときの正木さんの意見も含めて、次のようなケースが考えられます。

(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない「里数値」の場合です。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合(引用せざるを得ない場合)。
(3)長里により成立した「成語」の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走れる名馬)とは逆のケースです。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録の引用です。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 この他にもあると思いますが、このようなケースにおいては、『三国志』に長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は歴史官僚として公認の短里で『三国志』を編纂するという基本姿勢を貫いたはずです。おそらく長里記事をどのように引用・記載すべきか、天子に進呈する正史にふさわしい編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。正史編纂を任された歴史官僚であれば当然です。このように作者の気持ち(立場)になって、史料を再認識する学問の方法こそ、古田史学の方法でありフィロロギーという学問なのです。(つづく)

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