第2345話 2021/01/10

古田武彦先生の遺訓(23)

―没年齢記事が少ない「周本紀」以前―

 『史記』(注①)を読んでいて気づいたのですが、「周本紀」以前の登場人物の没年齢記事が少ないのです。史書ですから、基本的には中心王朝の「王年」(各王の即位何年)で『史記』は編年されています。ですから、登場人物の年齢や没年齢の記載が必ずしも必要ではありません。そのような史料性格にあって、例外的に没年齢が推定できる次の年齢記事が見えます。

○堯(百十八歳)「堯は即位して七十年たって舜をみいだして挙用し、それから二十年たって年老いて引退し、舜に天子の政を摂行させて、これを天に推薦した。つまり、事実上、舜に位をゆずって二十八年たつて崩じた。」五帝本紀、『中国古典文学大系 史記』上巻、12頁。
○舜(百歳)「舜は、二十歳にして孝行できこえ、三十歳にして堯に挙用され、五十歳にして天子の政を摂行した。五十八歳にして堯が崩じ、六十一歳にして堯に代わって帝位についた。帝位について三十九年、南方に巡幸中、蒼梧の野(湖南省)で崩じて、江南の九疑山(江西省)に葬られた。」五帝本紀、同、16頁。
○穆王(百五歳)「穆王は即位したとき、すでに五十歳であった。」「穆王は立ってから五十五年で崩じた。」周本紀、同、42、44頁。

 次いで「秦本紀」になると、先に紹介した百里傒の記事を含めて次の例があります。

○寧公(二十二歳)「寧公は生まれて十歳で立ち、立って十二年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○出子(十一歳)「出子は生まれて五歳で立ち、立って六年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○徳公(三十五歳)「徳公は生まれて三十三歳で立ち、立って二年で死んだ。」秦本紀、同、58頁。
○百里傒(百余歳)「〔繆公五年〕楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」秦本紀、同、58頁。
○孝公(四十五歳)「二十四年に、献公が死んで、その子の孝公が立った。ときに、孝公はすでに二十一歳であった。(中略)二十四年に、晋(魏)と岸門(河南省)で戦い、その将、魏錯をとりこにした。孝公が死んで、その子の恵文君が立った。」秦本紀、同、66~67頁。
○恵文君(王)(四十六歳)「三年に、恵文君が二十歳に達したので冠礼の式をおこなった。(中略)十四年に、あらためて元年とした(前年から王を称した故)。十四年に、楚を伐って召陵(河南省)を取った。(中略)恵文王が死んで、その子の武王が立った。」秦本紀、同、67~68頁。
○昭襄王(七十三歳)「三年に、昭襄王が二十歳に達したので冠礼をおこなった。(中略)五十六年に昭襄王が死んで、その子の孝文王が立った。」秦本紀、同、68~70頁。

 以上の史料状況から、歴代秦公(王)の没年齢は一倍年暦と考えて問題なく、二倍年暦では没年齢が若くなりすぎて不自然です。司馬遷の時代(前漢代)は既に一倍年暦であり、「秦本紀」の秦公(王)の年齢も一倍年齢と司馬遷は理解していたはずですから、百里傒の百余歳については超高齢の珍しい例として『史記』に特記したのではないでしょうか。
 他方、「周本紀」以前の百歳以上の事例(堯、舜、穆王)は二倍年齢と考えざるを得ないのですが、司馬遷にはその認識がありませんから、恐らく上古の聖人は超長生きと理解していたのではないでしょうか。これは司馬遷に限らず、『史記』と同じく前漢代に成立した『黄帝内経素問』にも次のように記されていることから、当時の知識人の共通した認識だったようです。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と誤解し、「今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」とあります。この記事からも前漢代での人の一般的寿命は五十歳と認識されていたことがうかがえます。なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』芸文志に見えます(注②)。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②漢代における年齢認識について、古賀達也『二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―』(『東京古田会ニュース』195号、2010年10月)で詳述した。

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