第2349話 2021/01/14

斉明紀の「宮」と「難波朝」記事の不思議

 昨年末から『史記』を始め、中国古典を集中的に読んできたのですが、今日は久しぶりに『日本書紀』を読みました。その為か、とても新鮮な感覚で新たな発見が続きました。とりわけ、斉明紀に今まで気づかなかった面白い記事が見つかりましたので、その概要だけをいくつか紹介します。その一つは、斉明元年(655)十月条の次の記事です。

 「小墾田(おはりだ)に、宮闕(おほみや)を造り起(た)てて、瓦覆(かはらぶき)に擬將(せむ)とす。又、深山廣谷にして、宮殿に造らむと擬(す)る材、朽ち爛(ただ)れたる者多し。遂に止めて作らず。」『日本書紀』斉明元年十月条

 小墾田に宮殿を作ろうとしたが材木が朽ちていて遂に造れなかったという、どうということのない記事ですが、よく考えると通説では説明しにくい記事ではないでしょうか。というのも、この三年前の652年には巨大な前期難波宮がそれこそ大量の木材を使って造営されており、約四十年後の694年には更に巨大な瓦葺きの藤原宮を造営し、持統がそこに遷都しています。ですから、なぜか655年には材木がなかったので小墾田に宮を造れなかったなどということは、一元史観の通説や従来の古田説では説明できないのです。
 この記事を合理的に説明できる仮説は、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説だけではないでしょうか。九州王朝が前期難波宮とその関連施設造営用に各地から材木などの大量の資材を調達したため、斉明は自らの宮をすぐには新築できなかったのではないでしょうか。
 このように斉明紀の中の些細な記事ですが、よくよく考えると前期難波宮九州王朝説を指し示すものだったことに、今回、気づくことができました。
 ちなみに、この記事と同年の七月条にも前期難波宮九州王朝複都説を指示する次の記事が見えます。

 「難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。」『日本書紀』斉明元年七月条 ※〈〉内は細注。

 難波朝とありますから、前期難波宮で各地の蝦夷と百済からの使者を饗応したという記事です。この記事も九州王朝説に立つのであれば、九州王朝が前期難波宮で蝦夷国と百済国の使者をもてなしたと考える他ありません。従って、前期難波宮は九州王朝の宮殿と解さざるを得ないのです。
 久しぶりに『日本書紀』を読んだのですが、全集中して取り組んだ中国古典の猛勉強の成果が、思わぬところに発揮できたと、新年そうそうから喜んでいます。

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