第2369話 2021/02/05

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(3)

 『史記』天官書の「中宮」「中官」問題を調査した結果、現在の流布刊本の「原文(漢文)」はいずれも「中宮」とあるため、投稿原稿に『史記』からの引用として「中宮」と表記することは妥当で有り、そのまま掲載しても差し支えないと西村さんに報告しました。原稿採否審査としてはこれで一件落着なのですが、わたしの中ではなぜこのような史料状況が発生したのかという疑問を払拭できないため、西村さんとも意見交換し、自らの勉強にもなるので、『史記』天官書の調査と史料批判を試みることにしました。
 京都府立図書館での調査時も、同様の疑問により史料批判・版本調査の必要を感じていたところ、いつもお世話になっている図書館員の方が一冊の小冊子を書庫から探し出して、「わたしには読めませんが、何か関係はないでしょうか」と『史記天官書補目』(注)なる本を見せていただきました。
 同書は、『史記』天官書に見える用語がどの星座や星に相当するのかなどを記した説明書のような性格の本でした。そして、その説明の冒頭に「中官」と小見出しがあり、「中官」に位置する星座・星の説明(星の数や位置など)が続いています。更にその後に「東官」「西官」「南官」「北官」の小見出しと共に同様の解説が続きます。従って、同書は『史記』天官書について、平凡社版『史記』と同様の表記になっているのです。すなわち、日本の平凡社版だけではなく、中国清代の解説書にも「中官」を採用するものがあったのです。それでは『史記』の原文は本来はどちらだったのでしょうか。わたしの学問的探究心はますますかき立てられていきました。(つづく)

(注)孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。冒頭の著者名部分には「清 陽湖孫星衍撰」とあり、同書成立は清代のようである。
 著者の孫星衍について、ウィキペディアでは次のように説明されている。

 孫 星衍(そん せいえん、1753年-1818年)は、中国清の官僚・学者。字は淵如、号は季逑。常州府陽湖県の出身。その著書『尚書今古文注疏』は『尚書』に関する清朝考証学の集大成として知られる。
《生涯》
 曾祖父に明末の礼部代理尚書の孫慎行。孫子の遠い子孫であると自称している。
 1787年に榜眼の成績で進士に及第した。1795年から山東省兗沂曹済道の道員の官についた。1799年に母の喪のために故郷に帰り、浙江巡撫であった阮元の招きにより、杭州の詁経精舎で教えた。三年の喪があけると山東に戻った。1807年に権布政使に昇任し、1811年に病気のため辞任した。
 孫星衍は詩人としても優れ、袁枚は「天下の奇才」と呼んだ。孫星衍は1771年に結婚し、妻の王采薇も詩をよくしたが、わずか24歳で病死した。王采薇の詩集である「長離閣集」は孫星衍の『平津館叢書』に収められている。
《著作》
 孫星衍の代表的な著書は『尚書今古文注疏』30巻で、1794年に作業を開始し、1815年に完成した。閻若璩以来、古文尚書と呼ばれるものが後世の偽作であることが明かになっていたので、古文の部分は『史記』をはじめとする書籍から本来のテキストを復元し、漢代以来の注を集め、さらに疏を加えたもので、現在も『尚書』研究上の重要な文献である。ほかに、『孫氏周易集解』、『孔子集語』、『寰宇訪碑録』などの著書がある。
 孫星衍は蔵書家でもあり、多くの書物を校訂・出版した。孫星衍が編集した叢書に『平津館叢書』・『岱南閣叢書』がある。

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