長里から短里への換算の痕跡
今朝は5時過ぎに自宅を発ち、阪急電車で大阪空港に向かっています。今日から九州出張で、鹿児島・宮崎・熊本・長崎・福岡と5県を廻ります。国内出張としてはハードな行程ですが、海外出張に比べれば楽なものです。
さて、先日の関西例会で報告された『三国志』の短里に関するもうひとつの研究、西村秀己さんの「短里と景初」について、その概要をご紹介します。
西村さんは魏朝における、長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』魏書の文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、明帝の景初元年に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
さらに西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。
〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。
2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。
3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、正確には約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。
(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た「端数」は数学の有効桁数としては意味がありませんから、「数千里」「数百里」という概算値表記に陳寿はしたものと思われます。)
4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。
5.作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有為の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有為の差があるかを見ればよい。
〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1,『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
漢(長里使用) 21.3%
魏 景初元年より前(長里の時代)37.5%
景初元年以後(短里の時代)5.3%
呉(長里使用) 33.3%
蜀(長里使用) 40.0%
2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。
3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要もなかったと考えるのが妥当である。
4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。
5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。
以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この報告に限らず、西村さんの研究手法(学問の方法)は統計的手法を手堅く用い、かつ、仮説とその証明方法が厳格に対応していることが特長です。ですから西村さんは、関西例会などでの発表を安心して聞ける研究者の一人なのです。