第2421話 2021/04/01

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(2)

 法隆寺金堂の釈迦三尊像が傷んでいることを古田先生からうかがっていましたが、脇侍が左右反対に置かれていることも不思議でした。更に光背も大きく傷んでおり、本来その外縁にあった飛天(注①)が失われていたことを最近になって知りました。
 ブログ「観仏日々帖」(注②)によれば、同光背周縁に長方形(幅約8mm、縦約25mm)の枘(ほぞ)穴が左右に各々13個ずつ穿たれており、本来は飛天が装飾されていたと考えられています(注③)。その根拠として、国立東京博物館の「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられており、中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背も、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることを指摘されています。そして、光背の飛天復原が東京芸術大学で行われたことを紹介され、その写真も掲示されています。

《以下、「観仏日々帖」より転載》
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
 2017年。周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
 このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。
《転載おわり》

 この飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかりました。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのです。すなわち、飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まります。ところが、飛天が失われた現状の光背では、脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くないのです。そこで、短い裳裾が外側になるよう、左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのです。
 従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が、本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきました。しかし、それは誤解でした。移築された法隆寺金堂に、飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないでしょうか。これは、移築・移転に携わった技術者たちの優れた美的センスのなせる技だったのです。
 なお、この飛天が失われた光背や、二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させます。光背に至っては、上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示しています。この状況は同釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都太宰府付近だったのか、あるいは比較的近距離にある難波複都だったのかという未解決のテーマに対し、何らかのヒントになるかもしれません。よく考えてみたいと思います。

(注)
①仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。〈ウィキペディアによる〉
②https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
③平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』6-9号、1907年(後に『仏教芸術の研究』所収)。

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