「倭王(松野連)系図」の史料批判(9)
―倭人伝に周王朝の痕跡―
古代中国の諸史料(注①)に記された倭国の始祖「太伯」伝承は、歴史事実を反映しているのではないかと、わたしは推定しています。その理由について説明します。なお、太伯とは、中国の春秋時代に存在した呉国を起こした、周王朝建国期の人物です。
この周王朝の官職名「大夫」が、『三国志』倭人伝に散見されることを古田先生が早くから指摘されてきました。『「邪馬台国」はなかった』(注②)で次のように述べています。
「『大夫』については、倭人伝中に
古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。
とある。魏晋ではすでに『大夫』は県邑の長や土豪の俗称と化していた。(中略)
ところが、倭国の奉献使は自ら『大夫』を名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、『卿・大夫・士』という、夏・殷・周の正しい古制のままの用法であった。」『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)376頁
この指摘は、倭国が古くから周の影響を受けていたことを意味します。その史料根拠の一つとして、『論衡』(注③)に次の有名な記事があります。
「周の時、天下太平にして、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(中略)成王の時、越常、雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」『論衡』巻八、巻十九
成王は周王朝を建国した武王の子供で、二倍年暦を考慮しない通説では紀元前11世紀頃の人物です。その頃から、倭人は中国(周)と交流(鬯草の献上)があったとれさており、周王朝の官職名「大夫」が倭人伝の時代、3世紀でも使用されているのです。
更に、倭人伝と周王朝との関係を明らかにした、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の一連の優れた研究があります。『俾弥呼と邪馬壹国』(注④)に収録された「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」です。同稿では、倭国の官職名などに用いられた漢字に、周代の青銅器に関係するものがあることを明らかにされました。
こうした研究により、倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、「太伯」始祖伝承や「呉王夫差」始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。(つづく)
(注)
①『翰苑』『魏略』『晋書』『梁書』。
「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』
「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『論衡』の著者は王充で、後漢代の成立。
④古田史学の会編『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年3月。