「邪馬台国」大和説と畿内説の落差
–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』
「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。
〝畿内説と大和説
邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁
このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。
〝金属製品の少なさ
大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁
このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)
(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。