年輪年代測定値の「100年誤り」説 (2)
年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説にも影響を受けるものがあります。
たとえば、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年が100年後の694年となり、米田良三さんが提唱された法隆寺移築説(注①)の成立根拠の一つが失われます。他方、現法隆寺の再建年代を和銅年間(708~714年)とする通説と修正伐採年(694年)が整合し、通説が更に有力となります。このことも、年輪年代測定値が100年古く誤っていることの根拠の一つとされています。というのも、従来説では、594年に伐採した心柱が約100年後の法隆寺再建時に使用されたことになり、伐採から100年も放置(不使用)した合理的説明に苦慮してきたからです。
この点、移築説であれば、100年前に建立された古い寺院を移築したという説明が容易にでき、通説の再建説よりも有力な仮説であると古田学派内では考えられてきました。ところが、年輪年代測定値は100年古く間違っているという鷲崎さんの指摘により、移築説が成立困難となったわけです。
しかしながら、法隆寺五重塔の建築様式は8世紀初頭の頃とは考えにくいと思います。たとえば、心柱を基壇地下に埋め込むタイプは古いもので、とても8世紀の寺院建築とは思えません。また、版築基壇が二重に形成されているのも古い様式とされてきました(注②)。更に、金堂の釈迦三尊像光背銘(注③)に記された「法興元卅一年」(621年)という紀年が年輪年代測定による伐採年(594年)と近いことも、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)
(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』新泉社、1991年。
②「二重基壇」については、白鳳十年(670年)創建の観世音寺五重塔(太宰府市)にも採用されており、決定的な根拠とはできないが、現法隆寺は古い寺院を移築したものとする説と矛盾しない。なお、観世音寺の「二重基壇」については次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1694話(2018/06/19)〝観世音寺古図の五重塔「二重基壇」〟
古賀達也「『観世音寺古図』の史料批判 ―塔基壇と建物、非対応の解明―」『東京古田会ニュース』182号、2018年9月。
③古田説ではこの釈迦像や光背銘文を、九州王朝の天子阿毎多利思北孤(『隋書』による)のためのものとする。