太宰府出土、須恵器と土師器の話(6)
牛頸窯跡群を筆頭に各地の窯から太宰府条坊都市に食器用途の須恵器、煮炊き用途に使用された土師器が供給されています。ところが、太宰府の土師器は、他地域とは異なる特徴を持つことが知られています。それは製法に関することで、ある時期から回転台(ろくろ)を使用して土師器が造られるようになることです。
回転台成形による土器製造技術は須恵器製造技術と共に伝わったと考えられていますが、その後も土師器は地域伝統の「手持ち成型」技法で造られていました。ところが太宰府では須恵器杯Bの流行と同時期に土師器も回転台により造られるようになりました。これは大和の「宮都」にだけ見られた現象とされているようで、中島恒次郞さん(太宰府市都市整備部)の「日本古代の大宰府管内における食器生産」(注①)では次のように説明されています。
「大宰府官制成立時に発現する回転台成形の土師器生産は、宮都以外に発現した一大画期とでもいえる事象で、大宰府管内においても重要な出来事である。」671~672頁
「古代官衙成立後に発現する回転台成形の土師器を国家的な食器として見た時、九州内においては成川式土器、兼久式土器のように様式名称を上げることができるように大宰府との距離と正比例する強度で在地伝統が強くなる。逆を述べると大宰府を国家的な様相の極としていることになる。(中略)在地伝統の技術として捉えた手持ち成形の土師器は、実は都を包括する畿内では通有の事象であり、九州において在地伝統の技術を保持している集落と都がある畿内が同じ保守的様相を保っていることになる。」672~673頁
この説明の重要点は、わたしの理解するところ次の通りです。
(1) 太宰府の官制成立時・官衙成立後に回転台成形の土師器が発現する。
(2) 須恵器と土師器が共に回転台成形になるのは、大和の「宮都」と太宰府にのみ見られる〝国家的〟現象である。
そして、中島さんは土師器も回転台成形になった背景として、世襲工人の崩壊(筑前・筑後・肥前)や食器製造工人集団の統合がなされたためとしています。
「(筑前・肥前・筑後の)土師器は、回転台成形の製品が優勢な大宰府を一方の極とし、前代からの系譜を引く手持ち成形の製品が優勢な集落を一方の極とする様相が観察できる。ただし、時間の経過とともに集落様相は、Ⅲー2期(八世紀後半~九世紀前半)には回転台成形の土師器が優勢へと転換していく。その背景は、生産工人のあり方を文献史学ならびに考古資料観察から導き出した、世襲工人の崩壊による多様な人々による生産への転換を想定している。」667頁 ※()内は古賀による注。
「食器構成においてみるとⅢー1期(八世紀前半)において律令制国家的様相である土師器―須恵器の器種互換性・法量分化が成立し、国家的様相下に入るとともに、食器製作技法を見ると、地域の利害を無視した生産体制として土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離を行ったと解せる事象が顕在化することになる。この食器生産体制の編成と時期を同じくして条坊制施行、官道整備、水城・大野城・基肄城の再整備など大規模でかつ広範な分野で国家制度を体現するための諸制度が敷かれていくことになる。」673頁 ※同上。
こうした中島さんの見解について、その編年(暦年とのリンク)には賛成できませんが、「土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離」が行われたということについては、あり得ることと思います。既に論じられていることとは思いますが、そうした現象面の解釈以上に、なぜ律令官制成立時期に土師器も回転台成形になったのかという理由こそ追究すべき問題と思います。そこにも歴史的必要性があったと考えるからです。
わたしは九州王朝説に基づいて、次のような背景を推定しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都(倭京元年、618年。注②)と律令制統治体制確立による急激な人口増加が太宰府地区で発生したため、それに対応した食器量産体制拡充のため、より生産性が高い回転台成形が土師器にも採用されたとする理解です。当然、これは須恵器増産のための牛頸窯跡群拡大と軌を一にした政策と考えざるを得ません。そうすると、その時期は七世紀前半頃に位置づけるのが穏当となるのですが、中島さんの編年とは50年ほど異なり、太宰府土器編年の検討が必要となるわけです。
なお、中島さんのいう「大宰府官制」とは、王朝交替後の『大宝律令』下における八世紀の「大宰府官制」を指していますから、そのこと自体は妥当な見方です。実際に七世紀中頃に減少した牛頸窯跡群は八世紀になると再び増加していることが知られています(注③)。ですから、七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期と回転台成形土師器の発生時期との考古学的対応の検討が重要です(注④)。その当否はまだわかりません。これから精査したいと思います。(つづく)
(注)
①中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③石木秀哲(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年。(同年2月に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集)
④拙論〝前期難波宮九州王朝複都説〟によれば、「七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期」には前期難波宮も含まれるので、検討範囲は難波地域(大阪市)や陶邑窯跡群(堺市)も対象となる。