長里と短里の牛車「里数」
昨日の関西例会では、『三国志』や魏西晋朝の短里についての研究報告が正木裕さんと西村秀己さんから発表されました。両報告とも画期的で秀逸なものでした。今回は正木さんの報告を紹介します。
それは「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」という報告で、わたしが「洛中洛外日記」857話で紹介した『三国志』の「駑牛一日三百里」についての研究です。
『三国志』ほう統伝中の裴松之注に「駑牛一日行三百里」とあり、牛車の一日の行程として短里では約24kmで妥当だが、長里ではありえない距離となり、この記事も魏西晋朝短里説の証拠になるとしました。裴松之注に引用されたこの記事は西晋の張勃(ちょうぼつ)による『呉録』が出典で、『三国志』の著者陳寿と同時代の人物によるものです。従って、魏西晋朝では短里が公認使用されており、『三国志』も『呉録』も短里で編纂されていたことがわかります。
正木さんはこの「駑牛一日行三百里」が漢代の律令で定められた牛車の移動距離に基づくもので、漢代の長里表記「五十里」を短里に換算した数値であることを発見されました。その漢代の律令とは1983年に中国の湖北省江陵県張家山の漢墓から出土した大量の竹簡(1236枚)に記されていたもので、「頒布年」の呂后二年にちなみ「二年律令」と呼ばれているものです。
それには、荷物の運搬には牛車(「車牛」と表記。「徭律(徭役に関する律)」簡411)が用いられており、その守るべき速度が「傳送重車、重負日行五十里、空車七十里、徒行八十里」(簡412)と記されています。これらの里数は漢代ですから長里(1里=約435m)が使用されています。重い荷物を積んだ牛車の里数が「五十里」とされていますから、これを短里(1里=約77m)に換算すると約282里となり、『三国志』の「駑牛一日行三百里」に相当します。従って、正木さんは『三国志』の「駑牛一日行三百里」は漢代の「二年律令」で規定された長里表記での「五十里」を短里に換算したものとされたのです。すなち、漠然と牛車の一日の運搬距離を300里としたのではなく、漢代の律令の規定に従い、それを短里換算したものと理解できるのです。
この正木さんの発見により、同じ牛車での運搬距離を長里と短里で表記した史料がそろったことになり、漢代の長里と魏西晋朝の短里、すなわち『三国志』は短里で編纂されたとする古田説が正しかったことを史料根拠に基づいて証明されたのです。素晴らしい発見だと思います。それにしても漢代の竹簡が大量に発見され、「二年律令」が復元されたのですから、これもすごいことです。
最後に付け加えれば、『三国志』が短里であったことが自明のものとなった以上、「邪馬台国」畿内説は完全に葬り去られました。帯方郡(ソウル付近と推定されています)より邪馬壹国への総里程一万二千余里(約924km)と倭人伝に明記されていますから、倭国の女王卑弥呼の都は博多湾岸で決まりです。一万二千余里では大和へは絶対に届きません。この単純な理屈から「邪馬台国」畿内説論者は逃げずに受け止めていただきたいと思います。「邪馬台国の場所は永遠の謎」などといいかげんな報道してきたマスコミ関係者も、もうそろそろ真実を国民に伝えていただきたいものです。日本の「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の復活は、まずそこから始まるのではないでしょうか。