第1728話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(4)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が九州王朝ではないとすれば、通説の近畿天皇家(持統天皇)による叙位となりますが、それでは当時の近畿天皇家が唐の影響下にあったと考えてもよいでしょうか。この可能性の是非についても考察します。
 まず、否定的な史料根拠や論理性について紹介します。それは次のような点です。

①「永昌元年(689年)」当時の近畿天皇家が唐の影響下にあったとする史料根拠がない。
②『日本書紀』に記された三年号「大化」「白雉」「朱鳥」はいずれも九州年号からの転用であり、中国(唐)の年号を使用した痕跡は見えない。
③『続日本紀』の聖武天皇の詔報にも「白鳳以来、朱雀以前」(661〜683年、684〜685年)という九州年号が見え、近畿天皇家が公的に九州年号を使用(借用か)していた痕跡と思われる。この姿勢、すなわち九州王朝の存在は隠すが、その年号は必ずしも隠さず、必要に応じて記すという編纂方針は『日本書紀』と同様である。他方、『続日本紀』に中国(唐)の年号を使用した痕跡は見えない。
④近畿天皇家の藤原宮や飛鳥池などからの出土木簡には700年以前の年次表記として「干支」が用いられており、九州年号や唐の年号が用いられているケースは皆無である。
⑤中国の年号をその周囲の国が公的に使用するというケースは、その国が中国の冊封体制に入っていることを意味する。しかし、近畿天皇家が中国の冊封を受けていたとする痕跡は中国側史料にも日本側史料にも見えない。

 以上のように、7世紀末頃の近畿天皇家が唐の年号を使用していたことを示す史料はありません。こうした史料状況は那須国造碑の「永昌元年(689年)」が近畿天皇家発行の公文書(任命書)からの転用とする仮説には不利と言わざるを得ません。(つづく)

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