百済禰軍墓誌の「日本」再考(1)
久留米市の犬塚幹夫さんから百済禰軍墓誌の研究論文のコピーをたくさんいただいたのですが、ようやく時間ができましたので少しずつ読み始めました。その中には筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生の「中国出土の墓誌にみる亡命百済人について 百済禰軍と扶余太妃」もありました。
禰軍墓誌については6年ほど前に少しだけ調べ、「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)「百済人祢軍墓誌の『日本』」などで報告しました。既に諸説が発表されており、中でも東野治之さんの「百済人祢軍墓誌の『日本』」(岩波書店『図書』2012.02)では墓誌に見える「日本」を倭国の国名ではなく朝鮮半島諸国のこととされ、この説は有力視されています。
他方、氣賀澤保規さんは「百済人『祢軍墓誌』と“日本”と660年代の東アジア情勢」(文化継承学Ⅰ報告史料、2013年4月)で東野説を批判され、その時代に国号としての「日本」表記は成立していたと考えてよいとされました。わたしから見ると、東野説も氣賀澤保規さんの批判も大和朝廷一元史観枠内での解釈であるため、いずれも説得力に欠けるように思われました。(つづく)