前期難波宮と近江大津宮の比較
「古田史学の会」の福岡市や大阪市での講演会の運営にご協力していただいた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、『大津の都と白鳳寺院』という本をお借りして精読しています。同書は大津市歴史博物館で開催された「大津京遷都一三五〇年記念 企画展 大津の都と白鳳寺院」の図録で、久冨さんが同企画展を見学され、購入されたものです。
同書を繰り返し読んでいますが、わたしが最も知りたかった最新の近江大津宮遺跡の規模についての記述があり、以前から気になっていた前期難波宮との規模の比較を行っています。近江大津宮(錦織遺跡)は周辺の宅地化が進んでおり、発掘調査が不十分です。特に朝堂院に相当する部分は北辺の一部のみが明らかとなっており、全容は不明です。そこで、比較的発掘が進んでいる内裏正殿と同南門の規模を前期難波宮と比較しました。次のようです。
〔内裏正殿(前期難波宮は前殿)の規模〕
前期難波宮 東西37m 南北19m
近江大津宮 東西21m 南北10m
〔内裏南門の規模〕
前期難波宮 東西33m 南北12m
近江大津宮 東西21m 南北 6m
このように652年に創建された前期難波宮に比べて、『日本書紀』では667年に天智が遷都したとされる近江大津宮は一回り小規模なのです。大規模な前期難波宮があるのに、なぜ近江大津宮に遷都したのかが一元史観でも説明しにくく、白村江戦を控えて、より安全な近江に遷都したとする考えもあります。しかしながら、一元史観では内陸部の飛鳥宮から同じく内陸部の近江大津宮に遷都したことになり、それほど安全性が高くなるとは思われません。
他方、前期難波宮を九州王朝の副都と考えたとき、海岸部の摂津難波よりは近江大津の方がはるかに安全です。ですから、前期難波宮と近江大津宮が共に九州王朝の宮殿であれば、摂津難波からより安全な近江大津への遷都は穏当なものとなりそうです。その場合、近江大津宮の方が小規模となった理由の説明が必要ですが、十数年で二つの王宮・王都の造営ということになりますから、近江大津宮造営が白村江戦を控えての緊急避難が目的と考えれば、小規模とならざるを得なかったのかもしれません。引き続き、この問題について検討したいと思います。