難波京朱雀大路の新展開
難波京朱雀大路についてはこれまでも論じてきました。最近では「古賀達也の洛中洛外日記【号外】」2017/10/05「難波京の朱雀大路発見について」で、大阪歴史博物館・杉本厚保典さんの論稿を次の通り紹介しました。
※『大阪の歴史を掘る2015』より転載。
平成26年度 大阪市内の発掘調査
大阪歴史博物館 杉本厚保典
(前略)
古代の上町台地
難波宮跡での新発見
前期難波宮の宮城南門(朱雀門)140m南で行った調査⑦(中央区上町1丁目)では、幅1.5〜2.9m、深さ0.3〜0.7mの南北方向の溝が見つかりました(fig,6〜9)。この溝は前期難波宮中心線から西に16.35mのところで中心線に平行して延びていることから、難波京朱雀大路の西側溝と推定されています。中心線で折り返すと道路幅は32.7mに復元され、奈良盆地の横大路(32〜35m)の規模に相当し、古代の道路の中では最大級です。さらにこの溝の東側には小石が分布していました。難波宮の宮域内では1〜5cmの礫による小石敷が見つかっており、道路面にも小石を敷いていた可能性があります。今回の発見は難波宮のメインストリートを復元するための重要な手がかりです。(後略、転載終わり)
あれだけ大規模な中国風の宮殿を造営した権力者が、その宮殿南門から南に延びる朱雀大路を造らなかったとする見解には納得できなかったのですが、他方、上町台地にはいくつもの谷筋が入り込んでおり、朱雀大路も大きな谷筋で「寸断」されていたのかもしれないと理解していました。
ところが、先日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅に見えられて、二人で古代史談義をしていたのですが、正木さんから朱雀大路を通すために谷を埋め立てた整地層が出土していることを教えていただいたのです。それは大阪歴博『大阪の歴史を掘る2017』の村元健一さんの「平成28年度 大阪市内の発掘調査」5頁に報告されていました。同パンフレットはわたしも持っており、読んだはずですが失念していたようです。当該部分を転載します。
【転載】
難波宮の周囲に広がる難波京でも大きな成果がありました。難波京では平成26年度の調査で朱雀大路の西側溝と思われる南北溝が見つかりました。この溝を難波宮の中軸線で折り返すと道路幅は32.7mに復元できます。昨年度の調査でも朱雀大路に関わり大きな成果がありました。調査地は天王寺区石ヶ辻町で、想定朱雀大路の上にあたります。東側の細工谷遺跡では平成18年度の調査で西から東に開く谷(五合谷)が見つかり、この谷が奈良時代でも埋められていないことが明らかになりました。谷の状況から考えて谷は朱雀大路を超えて西までのびており、谷が埋められていなければ、道路の敷設は困難だと考えられます。この調査成果が難波京朱雀大路非存在説の有力な根拠となっていました。今回の調査では想定どおり朱雀大路西側で五合谷の谷頭が確認できたのですが、古代に遡る可能性のある整地層も見つかりました。整地層は7世紀前半の地層を覆っていることから、それ以降のものであることが分かります。残念ながら、整地層そのものの時期を絞りこむことはできませんでしたが、今回の調査により、谷の朱雀大路にかかる部分を限定的に整地していた可能性が出てきました。
【転載終わり】
以上のように、近年の発掘調査により次々と発見される朱雀大路や条坊の痕跡により、巨大な難波京の姿が明らかになりつつあります。