金石文一覧

第2375話 2021/02/10

多賀城碑「東海東山節度使」考(2)

―「常陸國界」「下野國界」記載の理由―

 多賀城碑の「東海東山節度使」を〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とする茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご指摘により、同碑文に対する理解が深まりました。その一つが、碑文前半にある多賀城からの各里程距離として、「常陸國界四百十二里」「下野國界二百七十四里」が記載された理由です。碑文には次の里程記事があります。

西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この内、「常陸國界」は東海道の終着点、「下野國界」は東山道の終着点です。わたしの理解では両官道は蝦夷国へ至る九州王朝官道の終着点であり、二つの軍事行政管轄地域の総称です。それが八世紀の大和朝廷にも引き継がれ、その二つの官道の〝総司令官〟として藤原惠美朝臣朝獦(以下、「藤原朝獦」とする)が「東海東山節度使」として多賀城に軍事侵攻したことを誇ったのが同碑建碑の真の目的だったのではないでしょうか。
 すなわち、陸軍を主体とする東山道軍と水陸両軍を主体とする東海道軍を指揮した藤原朝獦は、両終着点からそれぞれ「四百十二里」「二百七十四里」の地点(多賀城)まで侵攻し、神龜元年(724年)に大野朝臣東人が建造した多賀城を修築したと誇り、その地は「蝦夷國界」から「一百廿里」〝東〟へ入った所でもあると記したわけです(注①)。おそらく、「常陸國界」と「下野國界」にあった蝦夷国との「國界」(国境線)を多賀城の西「一百廿里」のラインまで北上させたことを誇ったのがこの里程記事だったと思われるのです。
 そうすると、「常陸國界」「下野國界」とは古田説(注②)の〝西の国界〟ではなく、蝦夷国との旧国境線である〝東の国界〟ということになります。実はこのことを実証的に証明した優れた研究があります。田中巌さん(東京古田会・会長)の「多賀城碑の里程等について」(注③)です。(つづく)

(注)
①多賀城を蝦夷国内にあると論証したのは古田武彦氏である。
 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②同①。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2374話 2021/02/09

多賀城碑「東海東山節度使」考(1)

―茂山憲史さんからのメール―

 今春発行予定の会誌『卑弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の再校を行っていますが、校閲していただいている茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)より拙稿「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」の誤り(多賀城碑の誤引用)を指摘するメールが届きました。下記の内容ですが、わたしはこのご指摘に含まれる重要論点に気づき、驚きました。

【茂山さんからのメール要約】
 今回は、校正というよりご相談です。
「東山道節度使」➔ 「東海(道)東山(道)節度使」
案について、厳密に考える必要はないとも思うのですが、原碑に「道」はありませんから、考えてみました。
 東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。
いかがでしょうか?
 茂山憲史

 このメールにある「原碑」とは多賀城碑のことで、拙稿では碑文(注①)を紹介しておきながら、「東海東山節度使」を「東山道節度使」と誤引用していることをご指摘いただいたものです。もちろん再校で訂正させていただきますが、わたしが驚いたのはメール後半の〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。〟という部分でした。わたしはこの多賀城碑文の「東海東山節度使」が持つ、拙稿にとって重要な意味に気づいていなかったのです。
 そもそも拙稿の主要論点は、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の秀逸な論文「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」「東山道都督は軍事機関」(注②)や肥沼孝治さん(同、所沢市)の「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(注③)で提起された九州王朝官道の全容と、それぞれの官道が九州王朝の〝方面軍〟としての軍事行政機能を有しているという仮説に基づき、その〝方面軍〟の目的地についてでした。拙稿では各官道の目的地を最終的には次のようにしました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)

 今回の茂山さんの指摘は、この仮説に対応した表記として多賀城碑の「東海東山節度使」を理解され、〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とされたものです。茂山さんが提示されたこの視点により、多賀城碑文そのものに対する、わたしの理解が更に深まったのです。(つづく)

(注)
①多賀城碑碑文
「西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里
 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
  天平寶字六年十二月一日」
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)
③肥沼孝治「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(同上)


第2357話 2021/01/24

市大樹著『飛鳥の木簡』

  の「天皇」「皇子」写真

 前話の〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟で、〝同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えない〟と述べましたが、そのことについて詳しく説明します。

 市大樹(いち ひろき)さん(大阪大学教授)の名著『飛鳥の木簡』(注①)には巻頭のカラー写真に「天皇」「皇子」木簡が掲載されています。わたしはその写真などを見て、飛鳥遺跡(七世紀後半)からは「天皇」「皇子」木簡が出土しており、当時の近畿天皇家(天武・持統)が「天皇」を称していたと考えざるを得ず、その位置づけは九州王朝の天子の配下としての〝ナンバー2〟天皇であるとしました。これは古田旧説であり、先生が晩年に唱えられた〝近畿天皇家は八世紀の文武から天皇を称した。七世紀の木簡や金石文に見える「天皇」は全て九州王朝の天子の別称〟とする古田新説は成立困難としました(注②)。
『飛鳥の木簡』に掲載された写真の「天皇」「皇子」木簡(飛鳥池遺跡出土)釈文などが次のように紹介されています。

○「大伯皇子宮物 大伴□・・・□品併五十□」
〝冒頭の「大伯皇子(おおくのみこ)は、天武天皇と大田皇女との間に生まれた「大伯皇女」である。皇女だが「皇子」と記すのは、当時、天皇の子女は男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。(中略)
天武天皇の皇子の名前が書かれた木簡は、さらに二点ある。一点目は笠のある釘形の木製品で、軸部に「舎人皇子□」、その反対面に「百七十」とある。【口絵7】。(中略)もう一点が、両面に「穂積皇子(ほづみのみこ)」と記された木簡である。〟同書、121~122頁。

○「天皇聚□弘寅□」
〝(飛鳥池遺跡)北地区からは「天皇聚□弘寅□」と書かれた木簡も出土している。【口絵5】。現在、「天皇」と書かれた日本最古の木簡である。この「天皇」が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い〟同書、146頁。

 『飛鳥の木簡』巻頭の口絵(カラー写真)を見ますと、「天皇」木簡は明晰に文字が見え、釈文の通りです。「大伯皇子」木簡は「大伯」の部分が不鮮明ですがなんとか読めます。恐らく赤外線写真ではもっとはっきりと読めるはずです。「舎人皇子」木簡は写真の文字が小さくて「舎人皇子□」は判断が困難です。その反対面の「百七十」はなんとか確認できます。

 そこで、奈良文化財研究所の木簡データベース掲載の「舎人皇子」木簡写真を拡大して見ると、「舎」「皇」は確認できました。反対面の「百七十」は明晰です。「穂積皇子」は「穂積」は確認できますが、「皇子」はそう言われればそう読めるというレベルでした。しかし、木簡調査の専門家が実物を見て、「穂積皇子」と判断していますから、赤外線写真などでも確認の上でのことと思われ、その判断を否定できる根拠(別の文字であるという痕跡)は見いだせません。

 以上のように、奈良文化財研究所や市さんによる飛鳥池出土の「天皇」「皇子」木簡の釈文は妥当なものと解さざるを得ません。九州王朝説への有利不利とは関係なく、飛鳥出土木簡は古田学派の研究者にとっても正面から取り組むべき対象です。古田史学・多元史観が正しければ、そこから新たな展開が見えてくるはずですから。

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②古賀達也「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」、『多元』155号、2020年1月。この拙稿で、古田旧説を支持する七世紀以前の次の史料に見える「天皇」を紹介した。その後、服部静尚氏より「法隆寺薬師仏光背銘」は後代追刻の疑いがあり、七世紀前半の銘文とはできないとする批判をいただいた。この点、留意したい。
○五九六年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○六〇七年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○六六六年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○六六八年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○六七七年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○六八〇年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」(奈良県明日香村飛鳥遺跡出土)
○六八六・六九八年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)


第2332話 2020/12/24

「中宮天皇」は倭姫王か

 野中寺に伝わる弥勒菩薩銘(注①)の「中宮天皇」を九州王朝の天子(筑紫君薩夜麻)の奥さんとする仮説を10年ほど前の「古田史学の会」関西例会で発表したことがあります(注②)。そのときのことを「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟で次のように紹介しました。

 〝中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智五年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。〟

 ここまでを作業仮説として提起していたのですが、それ以上は進展していませんでした。ところが先日(12月21日)、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)とインターネット通話で九州王朝トップ(倭王)の称号や天皇号の位置づけについて意見交換していたときに、この中宮天皇は天智の皇后で九州王朝の皇女と考えられている倭姫王のことではないかというアイデアが浮かんだのです。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が近年発表された九州王朝系近江朝説とも関連したものです。このアイデアについて日野さんに意見を求めたところ、近畿天皇家一元史観の学界内に中宮天皇を倭姫王とする説が既にあるとのことでした。

 そこで、古田学派内での先行説の有無を調べるために、正木裕さんに確認したところ、昨日開催された「水曜研究会」(注③)で同様の意見が参加者(服部静尚さん他)から出されたとのことでした。こうした研究動向を知り、仮説として成立しそうなアイデアであることに自信を得ました。これからは各研究者による様々な論証が試みられることと期待しています。

(注)
①同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
②古賀達也「中宮天皇と不改常典」(古田史学の会・2011年7月度関西例会)
③古田史学の会・会員有志による研究会(会場:豊中倶楽部自治会館)。毎月一度、水曜日に開催されることからこの名称が付けられた。


第2274話 2020/10/26

新・法隆寺論争(3)

法隆寺持統期再興説の根拠

 法隆寺の再興時期について、和銅年間とする説や持統期には再建されていたとする説があります。持統期での再建あるいは移築説の根拠とされる金石文に、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」があります。その銘文は次の通りです。

「観音像造像記銅板」
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓

 この「甲午年」は六九四年(持統八年)とされています。この銘文中に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、これは法隆寺・片岡王寺・元興寺のこととされています。ですから、六九四年(持統八年)には法隆寺(鵤大寺)が存在していたと考えられます。これら三つのお寺の筆頭に記され、しかも法隆寺(鵤大寺)だけが「大寺」とされていますから、比較的大規模な有力寺院と理解せざるを得ません。
 この銘文などを根拠として、持統期での法隆寺再興説に立たれている論者に田中嗣人さんがおられます。田中さんの論文「鵤大寺考」(注①)によれば、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする法隆寺私寺説(注②、若井敏明説)への反論として、この「鵤大寺」の「大寺」という表記は「官寺」を指すとして、次のように述べられています。

 「本銘文中に法隆寺のことを鵤大寺と表現していることは重要であって、再興法隆寺が官寺の扱いを受けていた良き傍証となりうるのである。(中略)
 まず大寺の意味であるが、一般的には、構造や僧侶数など規模の大きな寺院を意味し、『おおでら』などと称しているが、我が国上代では極めて限定された意味に用いられており、大寺とは官寺を指すことにほかならないのである。」8頁(同、注①)

 また、冒頭の「甲午年」についても六九四年(持統八年)とされ、その理由に次の点を指摘されている。

 「八世紀以前の金石文を検討すると、一般に干支のみで年号を記載するのと、日付記載が文頭にくる例は、大宝(七〇一~三)以前に限られ、また裏面の『此土王姓』を百済王姓の意に解すると、『続日本紀』(以下、『続紀』)天平神護二年(七六六)六月壬子条の百済王敬福の卒伝に、その曽祖父百済王禅広が日本に帰化した事情を述べ、(中略)百済王賜姓が持統朝に行われたことが知られるので、その頃の干支で甲午年は持統八年以外にはありえないので、本造像記が持統八年に記されたことが知られる。」6頁(同前)

 このように田中さんは手堅く論証を進められており、この金石文の存在により、法隆寺の再興が持統期になされたとする見解が有力なものであることを知りました。なお、この田中稿は法隆寺私寺説に対する批判を目的としたものなので、次にその批判の対象とされた若井敏明さんの論稿を読んでみました。そこにはとても興味深い指摘がなされていました。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。


第2213話 2020/08/25

アマビエ伝承と九州王朝(2)

 流行病を防ぐというアマビエ伝承に、わたしが関心を持ったのは九州王朝史研究において古代の感染症(天然痘など)記事が見出されたことによります。たとえば、九州年号史料に「老人死す」という記事が見え、それがどのような事件を意味するのか不明だったのですが、新型コロナウィルスによる高齢者の死亡や重症化が多いことから、同記事は感染症発生の痕跡ではないかと考えました。

①『二中歴』「年代歴」
 「蔵和」(559~563年)「此年老人死」

②『田代之宝光寺古年代記』
 「戊刀兄弟 天下芒鐃ト言 健軍社作始也 老人皆死去云々」
 ※「戊刀」は「戊寅」(558年)のこと。

 ①『二中歴』の九州年号「蔵和」の細注に「此年老人死」とあります。しかし、「此年」が「蔵和」年間(559~563年)のどの年のことか不明ですし、「老人」は特定の人物なのか、老人一般のことなのかもこの記事からはわかりません 。
 他方、②『田代之宝光寺古年代記』には九州年号「兄弟」(558年)の年の記事中に「老人皆死去」があり、「皆」とありますから、「老人」は特定の人物ではなく、やはり新型コロナの様な伝染病が発生し、「老人が皆死去した」と理解するのが穏当のように思われます。
 更にこの記事の前半部分「天下芒鐃ト言 健軍社作始也」は熊本市の健軍神社創建記事であることから、この「老人皆死去」という記事の場所も肥後地方のことと考えるべきでしょう。ちなみに、「田代之宝光寺」は鹿児島県肝属郡田代村にあったお寺のようですから、『田代之宝光寺古年代記』に記された同記事の舞台は肥後地方とする理解が支持されています。
 この記事以外にも、九州年号「金光」(570~575年)のときにも天下に熱病が流行ったため、仏像(善光寺如来)が百済から贈られてきたり、厄除けのために九州王朝で四寅剣(福岡市元岡遺跡出土)が作刀されたことが、正木裕さんの研究により明らかとなっています(注)。
 この肥後国を舞台とした健軍神社創建や流行病発生の記憶が、今回のアマビコ(アマビエ)伝承の淵源にあるのではないかと、わたしは考えたのです。(つづく)

(注)
 正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」(『古田史学会報』一〇七号、二〇一一年十二月)
 古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(同上)
 古賀達也「金光元年(五七〇)の『天下熱病』」(「洛中洛外日記」八四八話 二〇一五年一月三日)
 正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」(『古田史学会報』一五七号、二〇二〇年四月)
 古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」(『東京古田会ニュース』一九三号、二〇二〇年七月)


第2142話 2020/04/25

古代の感染症と九州年号「金光」

 「洛中洛外日記」2136話〝厄除けで多利思北孤を祀った大和朝廷〟において、天平年間の感染症(天然痘)の流行により大和朝廷が厄除けのために、九州王朝の天子・多利思北孤を法隆寺で祀ったとする拙論を紹介しました。九州王朝でも感染症の流行に対して厄除けのために九州年号を改元したことがわかってきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も『古田史学会報』No.157(2020.04.13)掲載の〝「壹」から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3〟で、金光元年(570)に熱病が蔓延するという国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀したことが述べられています。
 わたしも「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟で『王代記』金光元年条の次の記事を紹介しました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」『王代記』(大永四年(1524)写本、『甲斐戦国史料叢書 第二冊』収録)

 『善光寺縁起』に同様の記事があり、『王代記』の記事はその「要約」であることがわかりました。概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が、鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたが全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話が『善光寺縁起』では続きます。なお、金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀にはこの事件は記されていません。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 百済からの如来像もたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝を介して送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。その後、河内や難波を直轄支配領域とした九州王朝は、上町台地に天王寺や前期難波宮・難波京を造営したとわたしは考えています。


第2115話 2020/03/20

湯岡碑文の「我」と「聊」の論理

 「洛中洛外日記」2112話(2020/03/16)〝蘇我氏研究の予察(2)〟において、「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)の次の冒頭記事にある三名の称号・名前(法王大王、恵忩法師、葛城臣)の他に、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在が記されていると説明しました。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)。

 読者の方から、「我法王大王」の「我」は、「わが君」のような慣習的な呼称(用法)であり、「我」を4人目の特定の人物と考えなくてもよいのではないかというご意見が届きました。この見解には根拠があり、もっともな疑問で、わたしも理解できます。しかしながら、この「我」を碑文の作成人物とする中小路駿逸先生(故人、追手門学院大学教授)の説をわたしは支持しています。良い機会ですので、その中小路説について説明します。
 中小路先生は論文「湯岡碑文と赤人の歌について」(『愛文』第二七号、1992年)で、次の理由により同碑文の「我」を碑文作成者とされました。

①碑文は序文と本文からなっている。
②序文は「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」であり、この碑文作成に至る事情が述べられている。
③「惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。(中略)後之君子、幸無蚩咲也。」が本文に当たる。
④この二つの部分の関係を示すのが「聊作碑文一首」の「聊」(いささか)の一字である。
⑤当碑文以前の先行例(『詩経』『楚辞』『文選』)によれば、「聊」なる語が、常に、その文における「われ」、すなわち第一人称の人物の、動作・状態を修飾するのに用いられており、第二人称・第三人称の人物の動作・状態について用いられた例を見いだしえない。
⑥当碑文の作者も先行例の用法に従ったものと考えるのが妥当である。

 こうした論理展開により、次のように結論づけられています。

⑦ゆえに、「聊作碑文一首」は「われは、いささか(しばらく、ひとまず)以下の(あるいは、この)碑文を作る」の意ととるほかなく、この場合「碑文」とは少なくとも「惟夫」から「蚩咲」までを含むがゆえに、その部分は「われ」が作ったのであり、また「その部分を『われ』が作る(作った)」という文辞を含む「序」を書いたのは、その「われ」以外ではありえないがゆえに、当碑はその「序」も「本文」も、同一の一人物の作である。

 このように中小路先生は指摘され、碑文に見える「法王大王」は「聖徳太子]ではなく、古田先生と同じく九州王朝の「大王」とされました。この中小路先生の、碑文中の「我」は碑文の作成者とする説をわたしは支持しています。


第2112話 2020/03/16

蘇我氏研究の予察(2)

 服部さんが指摘されたように、『日本書紀』に見える蘇我氏と「葛城」との不自然な関係付け記事にこそ、わたしは九州王朝説からの蘇我氏研究アプローチの鍵があるのではないかと直感しました。そしてその鍵を解くもう一つの鍵が九州王朝系史料にありました。それは、九州年号「法興」史料として有名な「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)です。
 現在、同碑は所在不明となっていますが、碑文冒頭には次の記事があったとされています。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)

 ここには三名の称号・名前が記されています。「法王大王」「恵忩法師」「葛城臣」です。なお、「法王大王」を「法王」と「大王」の二人(兄弟)を表すとする理解もありますが、本稿では従来説に従い、「法王大王」という人物一人としておきます(本稿の論点の是非に直接関わらないため)。厳密に言うのなら、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在もありますが、その名前や称号は不明ですので、本稿では取り上げません。
 古田説では碑文の「法王大王」は『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤(法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える上宮法皇)のこととされ、「法興六年」はその年号で596年のこととされます。碑文に見える「法王大王」に従っている人物は、僧侶の「恵忩法師」と臣下の「葛城臣」の二人だけですので、いずれも天子に付き従って伊予まで来るほどの九州王朝内での重要人物と思われます。
 特に「葛城臣」にわたしは注目しました。もしかすると、『日本書紀』編者は九州王朝の重臣「葛城臣」を近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に重ね合わせようとして、蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』を編纂した、あるいは、九州王朝史書の多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、その際、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用したのではないでしょうか。
 この点、「葛城」という地名が、大和にも北部九州(『和名抄』肥前三根郡に葛城郷が見える)にもあったことが、「葛城臣」記事を『日本書紀』に転用しやすくさせた一つの要因になったと思われます。(つづく)

【以下はウィキペディアより転載】
 ※近畿天皇家一元史観に基づく解説が採用されており、古田史学とは異なる部分がありますので、ご留意下さい。。

伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)

法興六年[注 1]十月、歳在丙辰、我法王大王[注 2]与恵慈法師[注 3]及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以[注 4]妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽[注 5]。窺望山岳之巖※(山偏に「咢」)、反冀平子[注 6]之能往。椿樹相※(「广」の中に「陰」)而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢[注 7]、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊[注 8]、豈悟洪灌霄庭意歟[注 9]。
才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文より。

注釈
1.「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
2.「法王大王」は聖徳太子を指す(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
3.底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
4.底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
5.底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
6.底本では「子平」であるが、「平子」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
7.底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
8.底本に「以」は無いが、意補(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
9.底本では「与」であるが、「歟」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。


第2109話 2020/03/13

「鬼室集斯の娘」逸話(2)

 安田陽介さんやわたしが「鬼室集斯の娘の石碑」なるものの存在を知ったのは、『市民の古代研究』(21号、1987年5月)に掲載された平野雅※廣さん(熊本市、故人)の論稿「鬼室集斯の墓」で紹介された次の記事でした。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで、綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍らに朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
【転載おわり】

 この記事によれば、鬼室集斯の娘(鬼室王女)の石碑が蒲生郡の山中にあり、九州年号の「朱鳥三年戊子三月十七日」と刻されているとのこと。これが同時代(七世紀末)の金石文であれば九州年号史料として貴重ですし、後代に造立されたものであっても、「朱鳥三年戊子三月十七日」に「鬼室王女」が没したと思われる伝承が当地に残っていたこととなります。(おわり)
※廣:日偏に「廣」


第2107話 2020/03/12

「鬼室集斯の娘」逸話(1)

 わたしが古田先生の著書(※初期三部作)に出会い、いたく感銘し、どうしても著者に会いたいと、「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」に入会したのは1986年のことでした。当時のわたしの研究テーマは九州年号と古代貨幣で、特に九州年号は多くの会員が研究しておられ、その後を追うように、わたしも先輩に教えを請いながら手探りで研究を進めたものです。
 そのようなとき、一緒に調査研究を行ってくれたのが、当時、京都大学生だった安田陽介さんでした。安田さんは京大で国史(日本古代史)を専攻されており、国史大系本『続日本紀』の漢文をすらすらと読み下せるほどの俊英で、わたしは多くのことを教えていただいたものです。その安田さんと鬼室集斯墓碑研究のため二度ほど現地調査を行いました。初めて鬼室神社を訪問したとき、途中でレンタカーがパンクするというアクシデントが発生したのですが、安田さんはあわてることもなく、備え付け工具を使用して短時間でスペアタイヤと交換してしまいました。安田さんは頭が良いだけではなく、まさに歴史を足で知るアウトドア派でもあり、それは見事な手際だったことを記憶しています。
 そのときの調査目的は鬼室神社にある鬼室集斯墓碑の実見と、鬼室集斯の娘の石碑調査でした。鬼室神社の氏子さんのご協力により、墓碑調査は行えたのですが、娘の石碑については所在も不明で、何の手がかりも得ることができませんでした。それは今も手つかずのままで、三十年近く経ってしまいました。どなたか現地調査を手伝っていただける方はおられないでしょうか。(つづく)

※古田武彦「初期三部作」 『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』朝日新聞社刊。現在はミネルヴァ書房より復刊されています。


第2106話 2020/03/11

七世紀の筆法と九州年号の論理

 鬼室集斯墓碑の碑文の文字「室」の「ウ冠」第二画が、七世紀まで遡る可能性を有す筆法「撥(はね)型」であることを先の連載で説明してきました。そのとき、国内の「撥型」の例として、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『法華義疏』の「宮」をあげました。いずれも九州王朝中枢で成立した一級品の史料ですが、時代が七世紀前半であり、七世紀後半成立の鬼室集斯墓碑(朱鳥三年没、688年)とは半世紀ほどの差がありました。そこで、七世紀後半の同じ近畿地方成立の史料を探したところ、『金剛場陀羅尼経』(国宝)中に「撥型」の「常」「守」などの字がありました。
 『金剛場陀羅尼経』は「丙戌年」(朱鳥元年、686年)「川内國志貴評」などと記された、九州王朝時代のいわゆる「評制史料」です。ですから、鬼室集斯墓碑と時代も地域(近江と川内)も近接しており、その両者に古い字形「撥型」が存在することは興味深い一致点です。なお、『金剛場陀羅尼経』の末尾に記載された写経者の署名「寶林」の「寶」の字の「ウ冠」第二画は「撥型」ではなく、真下に下ろす「押型」であり、経典本文の「ウ冠」に見える「撥型」とは異なっています。この史料事実は写経元の『金剛場陀羅尼経』に「撥型」が採用されていたことをうかがわせ、その元本の成立が七世紀初頭の可能性を示すのではないでしょうか。そして、川内国での七世紀末の流行筆法は「押型」であり、写経者自らの署名には「押型」の「寶」の字形を採用したことになります。なお、『金剛場陀羅尼経』は隋代に漢訳されており、この理解と矛盾しません。
 このように成立時期や地域が近接し、共に「ウ冠」の字形に「撥型」を採用するという共通点を持つ両史料ですが、他方、大きな違いもあります。それは九州年号の「採否」です。百済渡来の官人、鬼室集斯の「庶孫」は墓碑に「撥型」の「室」を使用し、九州年号「朱鳥三年」も採用しています。これは、近江朝の官人(学職頭)であった鬼室集斯の立ち位置(九州年号影響下の官人)を示し、正木裕さんの仮説「九州王朝系近江朝」を支持する史料状況といえます。
 ところが、同じ七世紀末(評制の時代)で近隣の川内国では、仏典の書写に「撥型」の「ウ冠」の字形を使用しながらも、その年次表記には九州年号を使用せず、「丙戌年」(朱鳥元年、686年)と記しています。これは、当時の川内国は近畿天皇家の影響下にあったことを示しているのではないでしょうか。同時期の藤原宮・飛鳥池出土木簡や畿内の金石文に九州年号が記されず、干支表記されていることに対応した史料状況なのです。
 このように、七世紀後半において、九州年号使用の有無が、どの権力者の影響下にあるのかを推察するうえで、ひとつの指標となるように思われ、このことは今後の研究にも役立ちそうです。