金石文一覧

第1741話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(4)

 「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
 すなわち、641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。641年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
 この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。

 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末年(末歳次)」と表記できるとされているわけです。しかし、この解釈も無理であるとわたしは考えています。それは次のような理由からです。

①「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字により「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような因果関係が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
②「船王後墓誌」には「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(641)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(641)」は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続きますから、仮に命長七年(646)に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(641)」から更に5年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④さらに言えば、もし「末歳次辛丑(641)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦 天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説に従えば、こうした意味もなく不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。

 以上のようなことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする無理な解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ないのです。(つづく)


第1740話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇」の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、晩年の数年間を指すと解釈できるとする古田先生は、西村秀己さんの次の指摘を根拠に「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説を否定されました。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟

 すなわち、舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じており、船王後が没した12月3日は舒明在位期間中ではなく、墓誌の「阿須迦天皇の末」とは合致しないとされたのです。この西村さんの指摘はわたしも西村さんから直接聞いていたのですが、次の理由から賛成できませんでした。

①舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのは『日本書紀』によればその翌年(642年1月)であり、辛丑年(641)の10月9日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(641)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年とする表記は適切である。
②同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」と墓誌にあるように、戊辰年(668年)であり、その時点から27年前の辛丑年(641)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」年と表記するのは自然であり、不思議とするにあたらない。
③同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは「阿須迦天皇之末」という表記になっており、正確に使い分けていることがわかる。
④以上の理由から、「西村指摘」は古田説を支持する根拠とはならない。

 このような理解により、むしろ同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を正しく表現しており、同墓誌の解釈(「阿須迦天皇」の比定)は、古田説よりも通説の方が妥当であるとわたしは理解しています。(つづく)


第1738話 2018/09/01

「船王後墓誌」の宮殿名(2)

 今朝は東京に向かう新幹線車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。午後から東京家政学院大学のキャンパスで開催する『発見された倭京』出版記念講演会に出席するためです。
 車窓の外は雨空が続いていますので、東京のお天気がちょっと心配です。参加者が少なく講演会収支が赤字になると「古田史学の会」から補填することとなり、会計担当の西村秀己さん(全国世話人、高松市)からお叱りを受けるからです。もっとも、この厳しい「金庫番」のおかげで、「古田史学の会」財政の健全性が保たれています。

 さて、「船王後墓誌」の宮殿名や天皇名に関する古田説に対して、最初に鋭い指摘をされたのは正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)でした。それは、墓誌に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の阿須迦天皇の末年とされる辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理というものでした。
 641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。九州王朝の天子が崩御して九州年号が改元されないはずはありませんから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないと正木さんは気づかれたのです。
 この正木さんの指摘を古田先生にお伝えしたところ、しばらく問答が続き、「阿須迦天皇の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、後半の数年間を指すと解釈できる」と結論づけられました。その解釈が次の文章となったわけです。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟
 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生の論稿ではこの順番で論理を展開されていますが、当初、わたしとの問答では(七)の「解釈」がまずあって、その後に西村さんの意見(五)を取り入れて自説を補強されたのでした。しかし、それでもこの古田説は成立困難と、わたしは古田先生や西村さんに反対意見を述べました。(つづく)


第1737話 2018/08/31

「船王後墓誌」の宮殿名(1)

 記紀や7世紀の金石文に見える宮殿名について考察を続けていますが、新たに「船王後墓誌」に記された宮殿名についても論じたいと思います。というのも、晩年の古田説では同墓誌は九州王朝系のもので、そこに記された各天皇は九州王朝の「天皇(旧、天子)」であり、その宮殿は福岡県と山口県にあったとされたからです。この古田説に対して、わたしは反対意見を先生に述べたことがありました。
 その古田説とは次のようなものでした。ミネルヴァ書房(2009年7月20日)『なかった 真実の歴史学』第6号に収録された「金石文の九州王朝 — 歴史学の転換」から要旨を抜粋します。

【要旨抜粋】
 「船王後墓誌」(大阪、松岳山出土、三井高遂氏蔵)
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

《訓よみくだし》
 「惟(おも)ふに舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏中祖 王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀(おさだ)の宮に天の下を治(し)らし天皇の世に生れ、等由羅(とゆら)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦(あすか)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦(あすか)天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故(ありこ)の刀自(とじ)と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固(ろうこ)せんがためなり。」

《趣意》
 第一、舩氏の(故)王後の首は、舩氏の中祖に当る王智仁の首の子、那沛の(故)首の子である。
 第二、彼(舩王後)は三代の天皇の治下にあった。まず、「オサダの宮の天皇」の治世に生れ、次いで「トユラの宮の天皇」の治世に奉仕し、さらに「アスカの宮の天皇」の治世に至り、その「アスカ天皇」の末、辛丑年(六四一)の十二月三日(庚寅)に没した。
 第三、(アスカ)天皇は彼の才能がすぐれ、功勲のあったために、「大仁」と「第三品」の官位を賜わったのである。
 第四、その後(二十七年経って)妻の安理故、刀自の死と共に、その大兄、刀羅古の首の墓と一緒に、三人の墓を作った。彼らの霊を万代に弔い、この宝地を固くするためである。
【抜粋終わり】

 以上の各天皇の宮に対する通説の比定は次のとおりです。
 (1)乎娑陀宮 敏達天皇(572〜585)
 (2)等由羅宮 推古天皇(592〜628)
 (3)阿須迦宮 舒明天皇(629〜641)
 この比定に対して古田先生は次の疑問を提示されました。

 (一)敏達天皇は、日本書紀によれば、「百済大井宮」にあった。のち(四年)幸玉宮に遷った。それが譯語田(おさだ)の地とされる(古事記では「他田宮」)。
 (二)推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田おはりだ宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。
 (三)舒明天皇は「岡本宮」(飛鳥岡の傍)が火災に遭い、田中宮(橿原市田中町)へ移り、のちに(十二年)「厩坂うまやさか宮」(橿原市大棘町の地域か)、さらに「百済宮」に徒(うつ)った、とされる。
 (四)したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。
 (五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。
 (六)その上、右の「時期」の中には、多くの「天皇名」が欠落している。
(1)用明天皇(585〜587)
(2)崇峻天皇(587〜592)
  以上、「641」以前
(3)皇極天皇(642〜645)
(4)孝徳天皇(645〜654)
(5)孝徳天皇(645〜654)
(6)斉明天皇(655〜661)
(7)天智天皇(661〜671)
(8)弘文天皇(671〜672)
(9)天武天皇(673〜686)
 当銘文成立(668頃)以前
 (七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。
 (八)当人(舩王後)は、「大仁」であり、「第三品」であるから、きわめて高位の著名人であるが、日本書紀には、敏達紀、推古紀、欽明紀とも、一切出現しない。最大の「?」である。

 古田先生は以上の疑問を挙げられ、次の仮説(理解)を提唱されます。

 三つの「天皇の宮室」の名は、いずれも九州王朝の「天皇(旧、天子)の宮室」名である。もし「近畿天皇家の宮室」だったならば、右のように諸矛盾“錯綜”するはずはない。その上、何よりも「七世紀中葉から末(七〇一)」までは「評の時代」であり、「評督の総監督官」は「筑紫都督府」である。
 「乎娑陀(オサダ)宮」 曰佐(乎左) (福岡県那珂郡。和名類聚抄。高山寺本)博多の那珂川流域の地名。
 「等由羅(トユラ)宮」 豊浦宮(山口県下関市豊浦村)
 日本書紀の仲哀紀に「穴門豊浦宮」(長門、豊浦郡)(二年九月)とある「豊浦宮」。
 「阿須迦(アスカ)宮」 飛鳥(アスカ)。福岡県小郡市の「飛鳥の浄御原の宮」。
 そしてこれらの三宮とも、神籠石山城の分布図の内部に「位置」しており、「わたしの判断を“裏付ける”」とれさました。(つづく)


第1736話 2018/08/30

那須国造碑「永昌元年」の論理(7)

 那須国造碑や釆女氏塋域碑に記された「飛鳥浄原大朝庭」「飛鳥浄御原大宮」について、ここで少し考察してみます。
 「洛中洛外日記」902話(2015/03/19)でわたしは〝「浄御原」「清原」「浄原」〟について次のように論じました。以下、要約して転載します。

【要約転載】
 『日本書紀』(720年成立)天武紀には「飛鳥浄御原宮」と表記され、『古事記』(712年成立)序文には「飛鳥清原大宮」とあります。
 同時代金石文や同逸文に「きよみはら」が記されています。

(1)天武5年(677)小野毛人墓誌(京都市出土)「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
(2)天武即位8年(680)薬師寺東塔檫銘(奈良県)「清原馭宇天皇」
(3)持統3年(689)采女氏榮域碑(大阪府出土、今なし)「飛鳥浄原大朝廷」
(4)文武4年(700)那須国造碑(栃木県)「飛鳥浄御原大宮」
(5)景雲4年(707)威奈大村骨蔵器墓誌銘(奈良県出土)「清原聖朝」
(6)和銅8年(715)粟原寺鑪盤銘(奈良県)「大倭国浄美原宮治天下天皇」
(7)天平2年(730)美努岡万墓誌(奈良県出土)「飛鳥浄原天皇」

 大別すると、「浄御原」「浄美原」のように、「きよみはら」と読めるもの(1、4、6)と、「清原」「浄原」のように「み」に対応する「御」「美」がないもの(2、3、5、7)の二種類があります。
 近畿天皇家の正史『日本書紀』には「飛鳥浄御原宮」とありますから、少なくとも『日本書紀』成立以降はこちらを正当としたかったと思われますが、『日本書紀』成立以後の(7)美努岡万墓誌は「飛鳥浄原天皇」とあり、「み」に相当する字がありません。
 701年以前の近畿天皇家中枢領域の金石文の薬師寺東塔檫銘は「清原馭宇天皇」とあり、「み」が無いタイプです。天武の命により作成した金石文ですから、当時としては「清原」が用いられていた「直接証拠」とも言えるので、貴重です。『古事記』序文もこの「清原」を使用していますから、『日本書紀』成立以前の近畿天皇家では「清原」を正当な表記としていたと考えざるを得ません。
 古田先生はこの「浄御原」を「じょう・みばる」と訓み、福岡県小郡市付近にあった九州王朝の宮殿所在地名とされています。
【転載終わり】

 ここで考えなければならないことに、古田説のように「み」がつくケースは九州王朝の「じょう・みばる」宮のことであり、「み」がない場合は奈良の「きよはら」宮のことなのかという問題があります。また、同時代金石文の表記と『古事記』や『日本書紀』の表記との差異が何に基づくのかという点についても検討が必要です。(つづく)


第1732話 2018/08/26

『日本書紀』に見える「采女竹良」

 「采女氏塋域碑」に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、『日本書紀』にも「采女竹羅」「采女筑羅」として見えます。次の記事です。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には「小錦下」として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には「朝臣」の姓をもらい、天武崩御の際には「直大肆」として誅しています。没年は不明ですが、「采女氏塋域碑」によれば持統三年己丑(689)までには「直大弐」となり没しているようです。
 このような『日本書紀』の記事を信用する限り、采女竹良が「直大弐」として仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありません。そうすると那須国造碑にある「永昌元年己丑(689年)」に那須直韋提に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」も近畿天皇家のこととなります。太宰府の「戸籍」木簡に見える同類の冠位「進大弐」を持つ「建ア成」(「ア」は「部」の異体字)も近畿天皇家から叙位されたということになります。
 しかし、ONライン(王朝交代)以前のこの時期において、片方では九州年号が関東から九州まで使用される中、冠位は近畿天皇家が関東から九州まで叙位したということになります。このような理解は果たして正しいのでしょうか。他の可能性は考えられないのでしょうか。(「那須国造碑『永昌元年』の論理(7)」につづく)


第1731話 2018/08/26

「采女氏塋域碑」拓本の混乱

 〝那須国造碑「永昌元年」の論理〟ということで、理屈っぽい「洛中洛外日記」が続いていますが、ここで話題を少し変えて「息抜き」することにします。もっとも学問的には重要なテーマですから、しっかりと論じます。
 それは「釆女氏塋域碑」拓本の文字の異同についての問題です。同碑の「飛鳥浄原大朝庭」という表記について、わたしは「飛鳥浄原大朝庭」と記した拓本の他に、「飛鳥浄御原大朝庭」あるいは「飛鳥浄原大朝廷」と記した拓本や訳文が入り交じって存在していることに気づきました。わたしの「洛中洛外日記」原稿中にも同様の混乱があり、校正・チェックをお願いしている加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からそのご指摘を受け、この問題の存在にはっきりと気づきました。
 わたしは「釆女氏塋域碑」の碑文については主に「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本に基づいた訳文を採用していたのですが、ネットなどで見る拓本やそれらの訳文に微妙な差があることが気になっていました。そこで、京都府立歴彩館の総合資料館で先行研究論文や拓本が掲載された書籍を片っ端から閲覧しました。そして「釆女氏塋域碑」拓本についての近江昌司さんの研究論文「釆女氏塋域碑について」(『日本歴史』431号、1984.04)に巡り会いました。
 この「釆女氏塋域碑」は実物が存在しないため、研究は拓本によらざるを得ません。ところがその拓本間に文字の異同があったり、拓本から読み取られた訳文間にも文字の異同があるのです。そのことを近江昌司さんは「釆女氏塋域碑について」にて明らかにされ、複数ある拓本の中で「真拓」として現存するのは「小杉文庫蔵拓本」(静岡県立博物館蔵)だけであるとされたのです。そしてその他の拓本のほとんどは「真拓」ではなく、後世に造られた模造品の拓本であったり、印刷用の木製彫版によって摺られた「摺本」であるとのことなのです。
 幸い、わたしが依拠した「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本は「真拓」とされていました。ただし現在は行方不明とのこと。また、拓本作成時期はその碑文のひび割れの進み具合の差から、「小杉文庫蔵拓本」の方が古いとされています。結果としてわたしが採用した「拓本」は〝セーフ〟でしたが、まさか模造品の拓本やら印刷用の木版摺本が「拓本」として世の中に出回っているとは思いもしませんでした。
 文献史学における「史料批判」がいかに重要か、改めて思い知らされた一件で、まさに冷や汗ものでした。従って、「釆女氏塋域碑」の碑文は「飛鳥浄原大朝庭」であり、「飛鳥浄御原」と「御」を付記したり、「大朝庭」の「庭」を「廷」としている論稿は要注意です。なお、付言すればこれらの文字以外にも、碑文のキズなのか、本来の文字の一部なのかで論争されている字(「十」か「千」か)もありますが、こちらは碑文そのものを見つけ出さないと決着がつかないかもしれません。


第1730話 2018/08/24

那須国造碑「永昌元年」の論理(6)

 「直大弐」(11番目)の冠位が記された「釆女氏榮域碑」には次の表記があり、わたしは以前から注目してきました。それは「飛鳥浄原大朝庭」という王朝名が7世紀末(己丑年、689年)の「評制」の時代に存在していたことです。
 この「飛鳥浄原大朝庭」と記された「釆女氏榮域碑」について、古田先生は実物が存在しないことなどを理由に懐疑的でした。おそらく「飛鳥浄御原」を福岡県小郡市付近とする古田説にとって、河内から出土した「釆女氏榮域碑」に「飛鳥浄原大朝庭」とあることは納得できなかったものと思われます。しかし、江戸時代の拓本が現存することから、自説に都合がよくないという理由で無視することはできませんので、古田先生もこの碑文の扱いに苦慮されていたのではないでしょうか。
 「飛鳥浄原大朝庭」という表記に苦慮していたのはわたしも同様でした。この「飛鳥浄原」が奈良の飛鳥であろうと、筑紫の飛鳥であろうと、「大朝庭」と表現するにふさわしい宮殿遺構が発見されていないからです。「大朝庭」というからには「朝庭」を有す朝堂院様式の宮殿であり、「大」がつくほどの規模が必要です。しかし、奈良の飛鳥宮(飛鳥浄御原宮)は朝堂院様式ではありませんし、それほど大規模でもありません。「筑紫の飛鳥」に至っては遺跡そのものが未発見です。
 藤原宮であれば「飛鳥」の「大朝庭」にふさわしいのですが、「釆女氏榮域碑」に記されている年次「己丑年」(689年)時点では『日本書紀』に記された持統天皇の藤原宮遷都(694年)よりも前ですから、藤原宮を「大朝廷」の候補とすることができません。また、藤原宮が「飛鳥浄原」と呼ばれていた史料的痕跡もありません。
 しかし、采女氏(采女竹良)は「飛鳥浄原大朝庭大弁官」と記されており、「飛鳥浄原大朝庭」から「直大弐」を叙位されたと考えざるを得ません。従って、この「飛鳥浄原大朝庭」と那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」は同じと考えるのが真っ当な史料理解でしょう。そうするとこの「飛鳥浄御原」とは、「釆女氏榮域碑」が出土した河内の隣国である「大和の飛鳥」の方が遠く離れた「筑紫の飛鳥」よりも有力ということになります。
 このように、わたしの「思考実験」は堂々巡りをしながらも、那須直韋堤に「追大壹」を叙位したのは「大和の飛鳥」にいた権力者という結論に近づいてきました。(つづく)


第1729話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(5)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の影響下にあったため、「永昌元年(689年)」という唐の年号を用いた叙位「任命書」を発行したとするわたしの仮説は、その権力者を九州王朝の天子としても近畿天皇家(持統天皇)としても、それを支持する史料根拠が見当たらず、逆に唐の影響下にはなかったと考えざるを得ないこととなりました。このままではわたしの「思考実験」は袋小路に迷い込んでしまいそうです。そこで、今回は検討の目先を変えて、「追大壹」という冠位について考察を進めてみることにします。

 『日本書紀』によれば「追大壹」という冠位は天武14年(685年)に制定記事があり、48階の33番目に相当します。従って、碑文にある「永昌元年(689年)」の年次と矛盾しません。この点についての『日本書紀』の記述は正確と言えそうです。この冠位48階制度に含まれる「進大弐」が太宰府出土「戸籍」木簡に記されています。更に河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土した「釆女氏榮域碑」(己丑年、689年)にも「直大弐」が見えます。
それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649〜685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664〜685年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 以上のような史料事実から、「追大壹」(33番目)・「進大弐」(43番目)・「直大弐」(11番目)などの冠位48階制度が7世紀後半の天武・持統期に採用されていたことは疑えず、その範囲が関東(那須)・近畿(河内・大和)・北部九州(筑前国嶋評)の広範囲であることもまた確かです。だとすると、そうした冠位制度が当時の日本列島の統一権力者により施行されていたということになります。これは九州王朝説にとって重要な問題です。なぜなら、関東の那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が、太宰府出土木簡に見える「進大弐」を北部九州(筑前国嶋評)在住の人物に叙位したことになるからです。(つづく)

《太宰府出土「戸籍」木簡》

「木簡表側」
嶋評   戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[ ? ]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[ ? ] 川ア里 占ア赤足□□□□[ ? ]
少子之母 占ア真□女   老女の子 得  [ ? ]
穴□ア加奈代 戸 附有

注記:ア=部

「木簡裏側」
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建   [ ? ]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[ ? ]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女   丁女 同里□[ ? ]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[ ? ]

 (□=判読不能文字、 [ ? ]=破損で欠如)

《釆女氏榮域碑》※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。

飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。


第1728話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(4)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が九州王朝ではないとすれば、通説の近畿天皇家(持統天皇)による叙位となりますが、それでは当時の近畿天皇家が唐の影響下にあったと考えてもよいでしょうか。この可能性の是非についても考察します。
 まず、否定的な史料根拠や論理性について紹介します。それは次のような点です。

①「永昌元年(689年)」当時の近畿天皇家が唐の影響下にあったとする史料根拠がない。
②『日本書紀』に記された三年号「大化」「白雉」「朱鳥」はいずれも九州年号からの転用であり、中国(唐)の年号を使用した痕跡は見えない。
③『続日本紀』の聖武天皇の詔報にも「白鳳以来、朱雀以前」(661〜683年、684〜685年)という九州年号が見え、近畿天皇家が公的に九州年号を使用(借用か)していた痕跡と思われる。この姿勢、すなわち九州王朝の存在は隠すが、その年号は必ずしも隠さず、必要に応じて記すという編纂方針は『日本書紀』と同様である。他方、『続日本紀』に中国(唐)の年号を使用した痕跡は見えない。
④近畿天皇家の藤原宮や飛鳥池などからの出土木簡には700年以前の年次表記として「干支」が用いられており、九州年号や唐の年号が用いられているケースは皆無である。
⑤中国の年号をその周囲の国が公的に使用するというケースは、その国が中国の冊封体制に入っていることを意味する。しかし、近畿天皇家が中国の冊封を受けていたとする痕跡は中国側史料にも日本側史料にも見えない。

 以上のように、7世紀末頃の近畿天皇家が唐の年号を使用していたことを示す史料はありません。こうした史料状況は那須国造碑の「永昌元年(689年)」が近畿天皇家発行の公文書(任命書)からの転用とする仮説には不利と言わざるを得ません。(つづく)


第1727話 2018/08/22

那須国造碑「永昌元年」の論理(3)

 那須国造碑に唐の年号「永昌元年」が記された理由として、那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の年号を使用して「任命書」を発行したとする仮説を考えたのですが、その論理展開には続きがあります。それでは「飛鳥浄御原大宮」の権力者とは近畿天皇家(持統天皇)なのか、あるいは古田説の筑紫小郡の「飛鳥浄御原大宮」にいた九州王朝の天子(薩野馬か)なのかという問題です。このことについて考察します。
 まず、九州王朝の天子とすることは困難と思われます。その理由は次の点です。

①「永昌元年(689年)」時点での九州王朝の天子が唐の影響下にあったとする史料根拠がない。唐軍がいつ頃まで筑紫に進駐していたのかを示す史料もない。
②「永昌元年(689年)」時点では、九州年号は23年間続いた白鳳から朱雀へ改元(684年)され、更に朱鳥に改元(686年)されており、「永昌元年(689年)」は朱鳥四年に相当する。九州王朝が唐軍の影響下にあったとすれば、こうした九州年号の改元ができるとは考えにくい。
③従って、朱鳥四年の叙位「任命書」に年号を記すのであれば、九州王朝は「朱鳥四年」と記したはずである。たとえば滋賀県日野町には九州年号「朱鳥三年戊子(688年)」と記した鬼室集斯墓碑が現存しており、当時の倭国では九州年号が使用されていたことを疑えない。

 以上の理由から「永昌元年(689年)」という唐の年号が九州王朝の公式文書(任命書)に使用されたとは考えにくく、また、使用しなければならない積極的理由が見当たらないのです。(つづく)


第1726話 2018/08/21

那須国造碑「永昌元年」の論理(2)

 「古田史学の会」関西の八月度例会で発表された谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)に、関東の地の那須国造碑になぜ「永昌元年」(689年)という唐の年号が使用されたと考えますかとたずねたところ、「唐の影響下にあったため」との回答でした。谷本さんらしいシャープな見解です。
 その回答にわたしは納得できなかったので、さらに次の見解を述べました。

①7世紀末頃の関東地方が唐の影響下にあったとする痕跡が見当たらない。茨城県坂東市からは九州年号が記された金石文「大化五子年(699年)」土器が出土しており、むしろ九州王朝の影響が及んでいたと考えられる。
②従って、唐の影響下にあったのは同碑文に記されている、那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者ではないか。
③その場合、「飛鳥浄御原大宮」の権力者が「追大壹」の「任命書」の日付に「永昌元年己丑四月」と唐の年号を採用していたことになる。
④その「任命書」に記された「永昌元年己丑四月」を転載して、那須国造碑に叙位記事が記録されたと考えられる。
⑤他方、那須直韋堤の没年(700年)については当時の慣例に従って干支表記「歳次康子年正月二壬子日」とした。

以上のようなケースであれば、唐の年号「永昌」が遠く離れた関東地方の石碑に記されたことを説明できるとの意見を谷本さんに述べました。谷本さんもその可能性を否定されませんでしたが、これはこれで新たな問題が惹起され、谷本さんとの論議検討は続きました。(つづく)