金石文一覧

第1725話 2018/08/20

那須国造碑「永昌元年」の論理(1)

 「古田史学の会・関西」の八月例会で谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)から、那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年、永昌は唐の年号)の「追大壹」叙位記事は『日本書紀』持統四年四月条(690年)の叙位記事しかその付近に対応記事がないことから、那須国造碑の紀年と持統紀の紀年には一年のずれがあるとする仮説が発表されました。
 確かに茨城県坂東市(旧・岩井市)出土「大化五子年」(699年)など、7世紀末頃の史料に干支が一年ずれているものがあり、そのことについては拙論(「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』所収)でも論じたことがあります。そうした認識がありましたので、この谷本説も理解できるのですが、そうすると別の問題も発生するため、判断に悩むものでした。
 そこでこの那須国造碑の「永昌元年」「追大壹」を手がかりに、7世紀末の九州王朝から大和朝廷(近畿天皇家)への王朝交代の実相を探るべく論理を展開させてみることにしました。まだ結論は出ていませんから、連載途中で見解が変わるかもしれません。古代史研究における「思考実験」の現在進行形としてご覧いただければ幸いです。(つづく)

《那須国造碑文》
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固


第1716話 2018/07/29

大行事八幡社(豊後大野市)の「大化」

 同時代九州年号史料について「洛中洛外日記」810話(2014/10/25)「同時代『九州年号』史料の行方」という一文を書き、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店。2017年)に転載しました。その中で紹介したのが次の三つの九州年号史料で、いずれも江戸時代の地誌に記されていたものです。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年に造営する由、書付けてありしと云」

 この中で「白鳳壬申」骨蔵器については福岡市や久留米市での講演会で紹介し、地元の方々で調査してほしいと協力要請してきたところです。
 今日、たまたまこれらの九州年号史料のことが気になって、「大化元年」獣像があるとされる大野郡の大行事八幡社についてネット検索したところ、とても興味深いことがわかりましたので、ご紹介します。
 『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)「大行事八幡社」の記録を頼りに、「大分県」「大野」「大行事八幡」で検索したところ、一発で目的とする神社がヒットしました。わたしが最初に驚いたのが大行事八幡社の所在地名でした。「大分県豊後大野市緒方町大化」といい、なんと字地名が九州年号の「大化」と同じなのです。「木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見え」と『太宰管内志』には紹介されており、この銘文の「大化元年」と地名の「大化」が無関係は思われません。
 同神社を紹介した「大分県豊後大野市から気ままなblog」に掲載されている写真に神社前の石柱があり、そこには「大化創祀 大行事八幡社」と彫られています。おそらく、木製の獣に彫られた「大化元年」とは同神社創建年次のことと思われます。
 このように地名に九州年号「大化」があり、石柱には「大化創祀 大行事八幡社」とあることから、同神社が大化元年に創建され、そのことにより字地名も「大化」とされたとする理解でよいと思われますが、この「大化」が九州年号「大化」(695〜703年)なのか、『日本書紀』の「大化」(645〜649年)の影響を受けて後世に「大化元年(645)創祀」と表記されたのかという問題が残されています。引き続き調査したいと思いますが、地元の方のご協力が得られれば幸いです。


第1650話 2018/04/13

古代日本銘文鏡のフィロロギー

 「洛中洛外日記」1646話(2018/04/10)「縄文神話と縄文土器のフィロロギー」で、『古田史学会報』145号に掲載された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」の画期性について述べました。古代人の思想性や精神文化をフィロロギーにより復元する方法として、縄文土器の文様を史料として採用するという着眼点が素晴らしい論文でした。
 このように従来は思想史の史料として省みられなかった物について、古田先生から託されたテーマがあります。30年ほど前のことだったと思いますが、三角縁神獣鏡に記された銘文について、学界は単なる中国伝来の「吉祥句」として受け止めているが、これら国産鏡に記された銘文は当時の日本人の思想や価値観を著した第一級の同時代史料であり、フィロロギーの研究対象であると古田先生からうかがいました。そして誰かこの研究をやってもらいたいとも言われました。
 このときの先生の言葉が今でもときおり脳裏に浮かぶのですが、わたしの研究対象から外れていたこともあり、全く手をつけてきませんでした。ところが今回の大原論文に触発され、少しずつでも始めなければ冥界の先生に叱られるのではと思うようになりました。
 三角縁神獣鏡の紋様や銘文についての古田先生の見解については「三角縁神獣鏡の盲点」(古田史学の会HPに収録)が参考になります。どなたか一緒に研究しませんか。


第1559話 2017/12/25

「天武朝」に律令はあったのか(2)

 701年以前の近畿天皇家には律令がなかったとする古田説ですが、その根拠の一つに次の金石文の存在があります。
 それは「金銅威奈大村骨蔵器」(国宝)です。江戸時代の明和年間(1764〜1772)に現在の奈良県香芝市から発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝えられています。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形です。同骨蔵器は蓋に319字におよぶ銘が刻まれています。これには、威奈大村が宣化天皇の子孫にあたり、「後清原聖朝(持統朝か)」のときに任官、「藤原聖朝(文武朝か)」で少納言、大宝律令制定とともに従五位に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年(707)に任地で歿し、大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことなどが記されています。
 このようにこの骨蔵器は九州王朝から大和朝廷への王朝交代直後に製造された同時代金石文で第一級史料です。その銘文に「以大宝元年律令初定」と、大宝元年(701)に成立した大宝律令が大和朝廷として初めて制定した律令である旨が記されています。大宝律令を制定した文武朝の高級官僚(少納言)だった威奈大村の骨蔵器に記されているのですから、大和朝廷としての最初の律令は大宝律令であり、それ以前の九州王朝の時代には自前の律令は持っていなかったことを意味します。すなわち九州王朝説に立てば、700年以前の九州王朝の時代には、近畿天皇家も含む九州王朝(倭国)支配領域内は「九州王朝(倭国)律令」に基づいて統治されていたということになるのです。
 したがって、「天武朝」は律令を持っていなかったこととなり、前期難波宮が仮に「天武朝」の宮殿であったとしても、律令制に対応した朝堂院様式の官庁や東西の官衙は、近畿天皇家以外の権力者(九州王朝)が制定した律令により官僚群が政務に就いていたと理解せざるを得ません。ですから前期難波宮を「九州王朝(倭国)律令」に基づいて全国統治していた官僚群がいた九州王朝の宮殿・官衙と理解する九州王朝副都説は有力な仮説なのです。
 7世紀中頃における九州王朝の勢力を過小に見積もり、近畿天皇家が九州王朝よりも優勢であったかのような論調が古田学派内でも見られますが、そうした方々は本稿で紹介したような史料根拠に基づく論理的な歴史理解の方法、すなわち論証をもっと重視されるべきです。「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣先生)」「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処へ至ろうとも(岡田甫先生)」「論証は学問の命(古田武彦先生)」という言葉を、古田学派の皆さんに繰り返しわたしは訴えたいと思います。(つづく)


第1337話 2017/02/14

金印と志賀海神社の占い

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年1月、「九州古代史の会」主催の井上信正さんの講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第24号(昭和60年4月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明4年(1784)2月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」 *古賀注 「府呈」の「呈」は衍字か。

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事で、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(1790)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、1923年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は1811年(文化8年)とされているが、藩の記録では見あたらず、1809年(文化6)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。

(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました。


第1267話 2016/09/05

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)

 古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』によれば、三角縁神獣鏡の成立時期を古田先生は「景初三年(239)・正始元年(240)」前後とされました(「序章」2014年執筆)。当初は4世紀以降の古墳から出土する三角縁神獣鏡は古墳期の成立とされていたのですが、この古田説の変化についてわたしには心当たりがありました。それは1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」主催の古代史講演会のときで、テーマは「古代王朝と近世の文書 ーそして景初四年鏡をめぐってー」でした。
 この講演録は『市民の古代』九集(1987年)に講演録「景初四年鏡をめぐって」として収録されており、「古田史学の会」ホームページにも掲載しています。当該部分を略載します。なお、この講演録が『鏡が映す真実の古代』に収録されなかった理由は不明です。平松さんにお聞きしようと思います。

〔以下、転載〕
 今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。(中略)いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。
(中略)そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
〔転載終わり〕

 この講演を聴いたとき、わたしは驚きました。「景初四年鏡」を景初四年に国内で作られたとされたので、従来の三角縁神獣鏡伝世理論を批判されてきた理由との整合性はどうなるのだろうかとの疑問をいだいたのですが、わたしは「市民の古代研究会」に入会したばかりの初心者の頃でしたから、恐れ多くてとても質問などできないでいました。今、考えると、この頃から古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期について見解を新たにされていたのではないかと思います。このことを、わたしよりも古くから先生とおつき合いされていた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)にお聞きしたところ、わたしと同見解でした。谷本さんも「景初四年鏡」の出現により古田先生は見解を変えられたと思うとのことでした。(つづく)


第1150話 2016/03/15

上田正昭著『東アジアと海上の道』の思い出

 古代史研究者の上田正昭さんが3月13日に亡くなられました。享年88歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。昨年の古田先生のご逝去に続いて、古代史学界の重鎮が相次いでお隠れになり、新時代の到来を感じざるを得ません。
 古田先生も上田さんの著書『日本の神話を考える』の書評を産経新聞(1995.2.14、夕刊)に書かれたことがあります。『古田史学会報』6号(1995.4)に転載していますので、ご覧ください。
 わたしも上田さんの著書『東アジアと海上の道』(明石書店、1997,4)を持っていますが、発刊の年に明石書店の石井社長(現会長)からいただいたものです。その中に興味深い内容がありました。皇位継承のシンボルとして「三種の神器」の他に、百済国からもらった「大刀契(たいとけい)」という剣の存在が紹介されているのですが、百済国から献じられたということですから、本来は九州王朝がもらったことになります。
 百済国からの献上物として有名なものは石上神社の七支刀がありますが、これ以外にもこの「大刀契」というものがあったことが様々な史料に残されています。とても興味深いテーマだと思いますが、九州王朝研究としてまだ誰も取り上げていないのではないでしょうか。わたしも取り組んでみたいテーマです。


第1070話 2015/10/07

『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

  『泰澄和尚傳』(金沢文庫本)によれば、道照が北陸修行時の「持統天皇(朱鳥)七年壬辰(692年)」に11歳の泰澄と出会い、神童と評したとあります。道照は宇治橋を「創造」した高僧として、『続日本紀』文武4年三月条(700)にその「傳」が記されています。
 それによれば道照の生年は舒明元年(629年、九州年号の仁王7年)となり、没年は文武4年(700年、九州年号の大化6年)72歳とあり、北陸で泰澄少年に出会ったのは道照64歳のときとなります。当時の寿命としては高齢であり、はたしてこの年齢で北陸まで修行に行けたのだろうかという疑問もないわけではありませんが、古代も現代も健康年齢には個人差がありますから、学問的には当否を判断できません。
 『続日本紀』には道照が宇治橋を「創造」したと記されています。ところが有名な金石文「宇治橋断碑」や『扶桑略記』『帝王編年記』などには、「大化二年丙午(646)」に道登が造ったと記されており、かねてから議論の対象となってきました。とりわけ「宇治橋断碑」については古田学派内でも20年以上も前に中村幸雄さんや藤田友治さんら(共に故人)が諸説を発表されてきましたが、その後はあまり論議検討の対象にはなりませんでした。今回、「泰澄和尚傳」で道照の名前に再会し、当時の論争風景を懐かしく思い起こしました。
 そこで、その後進展した現在の古田史学・多元史観の学問水準からみて、この宇治橋創建年二説について少しばかり整理考察してみたくなりました。結論など全く出ていませんが、次のように論点整理を試み、皆さんのご批判ご検討の材料にしていただければと思います。

 1.「宇治橋断碑」などにある「大化二年丙午」は『日本書紀』の大化年号(645〜649年、元年干支は乙巳)によっており、それは九州年号の大化(695〜703年、元年干支は乙未)の盗用であり、従って「大化二年丙午(646)」という年号が記された「宇治橋断碑」などは『日本書紀』成立(720年)以後に造られたものである。
 2.『続日本紀』の記事は文武4年条(700年)だが、『続日本紀』の最終的成立は延暦16年(797年)なので、8世紀末頃の近畿天皇家の公式の見解では宇治橋を創建したのは道照であり、その時期は早くても遣唐使から帰国した「白雉4年」以後(斉明7年説が有力)とされる。
 3.また、「大化二年」では道照18歳のときであり、宇治橋「創造」のような大事業を行えるとは考えにくいとする意見も根強くある。
 4.「宇治橋断碑」などの「大化二年丙午(646年)」は九州年号の「大化二年丙申(696年)」とする本来の伝承を『日本書紀』の大化により干支を書き換えられたものとすれば、「大化二年丙申(696年)」は、道照の晩年(68歳)の事業となり、やや高齢に過ぎると思われるが、健康年齢の個人差を考慮すれば不可能とまでは言えない。もちろん道照自身が橋を建築するわけでもないので。
 5.他方、道登は『日本書紀』の大化元年・白雉元年条などに有力な僧侶として登場しており、その約50年後ではたとえ健在であったとしても道照以上に高齢となり、宇治橋「創造」事業の中心人物とはなりにくいように思われる。
 6.宇治橋そのものに焦点を当てると、『日本書紀』の天武元年条(672年)に「宇治橋」という記事が見え、その頃には宇治橋は存在していたこととなり、九州年号の大化2年(696年)「創造」説とは整合しない。

 以上のように今のところ考えているのですが、結論としては、まだよくわからないという状況です。勘違いや別の有力な視点もあると思いますので、引き続き検討したいと思います。


第902話 2015/03/19

「浄御原」「清原」「浄原」

 正木裕さんとの対話がきっかけで、天武天皇やその宮殿の呼称「あすかのきよみはらの宮」について気になりましたので、手持ちの史料を調べてみました。
 まず、『日本書紀』(720年成立)の天武紀には「飛鳥浄御原宮」と表記されています。『日本書紀』の表記は近畿天皇家が九州王朝にかわって列島の代表者となり、自らの都合により編纂されたという史料性格から、その表記や記事が歴史事実であったのかどうかは、別途検証が必要です。『古事記』(712年成立)も同様ですが、その序文には「飛鳥清原大宮」とあり、『日本書紀』とは異なっています。
 次いで同時代史料として金石文について調べました。わたしの知る範囲では下記の金石文や同逸文に「きよみはら」が記されています。

(1)天武5年(677)小野毛人墓誌(京都市出土)「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
(2)天武即位8年(680)薬師寺東塔(擦)銘(奈良県)「清原馭宇天皇」 ※(擦)は木偏に察。
(3)持統3年(689)采女氏榮域碑(大阪府出土、今なし)「飛鳥浄原大朝廷」
(4)文武4年(700)那須国造碑(栃木県)「飛鳥浄御原大宮」
(5)景雲4年(707)威奈大村骨蔵器墓誌銘(奈良県出土)「清原聖朝」
(6)和銅8年(715)粟原寺鑪盤銘(奈良県)「大倭国浄美原宮治天下天皇」
(7)天平2年(730)美努岡万墓誌(奈良県出土)「飛鳥浄原天皇」

 大別しますと、「浄御原」「浄美原」のように、「きよみはら」と読めるもの(1、4、6)と、「清原」「浄原」のように「み」に対応する「御」「美」がないもの(2、3、5、7)の二種類があります。この差に何か意味があるのか、今のところよくわかりません。ただ単に「清原」だと「きよはら」と訓んでしまいそうです。
 どちらの表記が本来の天武の宮殿の名称だったのでしょうか。近畿天皇家の正史『日本書紀』には「飛鳥浄御原宮」とありますから、少なくとも『日本書紀』成立以降はこちらを正当としたかったと思われますが、『日本書紀』成立以後の(7)美努岡万墓誌は「飛鳥浄原天皇」とあり、「み」に相当する字がありません。
 701年以前の近畿天皇家中枢領域の金石文の薬師寺東塔(擦)銘は「清原馭宇天皇」とあり、「み」が無いタイプです。天武の命により作成した金石文ですから、当時としては「清原」が用いられていた「直接証拠」とも言えるので、貴重です。『古事記』序文もこの「清原」を使用していますから、『日本書紀』成立以前の近畿天皇家では「清原」を正当な表記としていたと考えざるを得ません。
 このように考えると、なぜ『日本書紀』は「飛鳥浄御原宮」としたのでしょうか。古田先生はこの「浄御原」を「じょう・みばる」と訓み、福岡県小郡市付近にあった九州王朝の宮殿所在地名とされています。今のところ、わたしには良い結論が出せませんが、慎重に深く考えてみたいと思います。


第892話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「朔」

「洛中洛外日記」891話で、野中寺の弥勒菩薩像銘文冒頭の「丙寅年四月大※八日癸卯開記」の「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする麻木脩平さん新説を紹介したのですが、東野治之さんの論稿「天皇号の成立年代について」(『正倉院文書と木簡の研究』塙書房、昭和52年)によれば、薮田嘉一郎氏が同銘文を「丙寅年四月大朔八日癸卯開記」と既に読まれていたことが紹介されていました。薮田さんも「旧」を「朔」の省画とされていたとのことですので、薮田さんの論文(「上代金石文雑考」『考古学雑誌』33-7)を読んでみたいと思います。

 東野さんは「旧」と読んでおられるのですが、その結果、当銘文の成立は「新暦(麟徳暦=儀鳳暦)」と「旧暦(元嘉暦)」が併用された持統四年十一月以降、あるいは元嘉暦が廃され儀鳳暦が専用されるようになった文武元年以降とされました。すなわち、新旧両暦の併用時期、あるいは儀鳳暦に切り替えられた直後でなければ「旧」暦であることを明示する必要はないとされたのです。

 このように、問題の一字を「旧」とするのか「朔」とするのかで、銘文の成立時期に影響するのです。東野さんの根拠とされた新旧両暦併用や新暦専用の時期については、『日本書紀』や『続日本紀』の記事を根拠とされているのですから、近畿天皇家一元史観内部の論争としては「有効」な見解ですが、多元史観・九州王朝説の立場からすれば、『日本書紀』の記事にこだわる必要はありません。

 なお、元嘉暦では丙寅(666)の四月八日の日付干支は癸卯で、儀鳳暦では日付干支は甲辰となりますから、同銘文は元嘉暦で記されていることがわかります。従って、同銘文が丙寅年(666)成立とする場合は、それは元嘉暦使用の時期ですから、「旧」という字は意味不明です。やはり「朔」と読むのが自然な理解と思われます。

わたしはこの銘文は丙寅年に成立したと考えるのが穏当と思います。なぜなら東野さんのように約30年も後に、「丙寅」の年の記事を彫る必然性がありませんから。『日本書紀』持統四年の新旧暦併用記事との齟齬は、九州王朝説の立場からすれば解決できると思われますので、古田学派による解明が期待されるのです。


第891話 2015/03/08

野中寺弥勒菩薩像銘文の「旧」

 「天皇」の称号がいつ頃から使用されていたかの研究や論争で、必ずのように取り上げられる金石文に野中寺の弥勒菩薩像銘文があります。大阪府羽曳野市にある古刹、野中寺(やちゅうじ、別称は中之太子)は伝承では聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとされています。この野中寺の秘仏とされているのが重要文化財に指定されている銅造弥勒菩薩半跏思惟像で、その台座下部に彫られた銘文にある「中宮天皇」が天皇号の使用時期や、あるいは誰のこととするのかで、今も論争が続いています。もちろん古田学派でも何人もの研究者が取り上げてきました。わたしも関西例会や「洛中洛外日記」327話で触れたことがあります。

 今回、取り上げたいのは「中宮天皇」ではなく、銘文の成立時期を記した冒頭の次の部分です。

 「丙寅年四月大※八日癸卯開記」

 丙寅年は666年で天智5年、九州年号の白鳳6年に相当し、この年次については定説となっており、異論はほとんどありません。ところが「※」の部分の字を「旧」とする旧説と、「朔」とする新説があるのですが(それ以外の説もあります)、多くの論者は「旧」と読んで持論を展開されています。すなわち、当時使用されていた「新暦(麟徳暦)」ではなく、「旧暦(元嘉暦)」で銘文を記したことを明示するために「旧」と記されたと理解されてきました。
しかし、「旧」ではなく、「朔」の略字であるとする説が出され、この新説にわたしは早くから注目してきました。この新説は麻木脩平さん(「野中寺弥勒菩薩半跏像の制作時期と台座銘文」『仏教芸術』256号、2001年5月、「再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず-東野治之氏の反論に応える-」『仏教芸術』264号、2002年9月)によるもので、その主たる根拠は、今では「旧」は「舊」の「略字(別字)」ですが、その当時は「旧」という「略字」は使用されていないというものです。

 大変説得力のある仮説と思いました。たしかに同銘文の「旧」とされてきた字の「日」の部分は「月」に近い字形ですから、「朔」の略字とする麻木説は魅力的です。今後、この銘文に関する研究では、この「旧」なのか「朔」なのかという課題についても検討が進むことを期待したいと思います。(つづく)


第848話 2015/01/03

金光元年(570)の「天下熱病」

 「洛中洛外日記」843話と844話で紹介した『王代記』の金光元年(570年、九州年号)に記された次の記事について、正木裕さんとメールで意見交換を続けています。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 当初、この記事の意味がよくわからなかったのですが、『善光寺縁起』に同様の記事があり、その大幅な「要約」であることに気づいたのです。
 概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする、仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたのですが、全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話しが、『善光寺縁起』では続きます。
 金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀には見えないこの事件や、発端となった「天下熱病」が歴史事実かどうか、正木さんとのメールのやりとりの中で気になり、考えてみました。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 他方、近畿天皇家では「天下熱病」に対して、百済からの如来像がもたらした災いとして鋳潰そうとしました。ともに金光元年の出来事ですから、この二つの事件を偶然の一致とするよりは、「天下熱病」という国家的災難の発生という共通の背景がもたらしたものとする理解、すなわち「天下熱病」を史実とするのが穏当と思われるのです。
 さらにここからは論証抜きの思いつき(作業仮説)ですが、百済からの如来像はたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝から送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、こうした事件が一因となって九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。
 以上の考察からも九州王朝と善光寺、そして難波・河内が「九州年号」や「聖徳太子」伝承とも関わり合いながら、密接な繋がりのあることがうかがえるのです。