考古学一覧

第1944話 2019/07/19

巨大前方後円墳が天皇陵とは限らない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠が河内・大和の巨大前方後円墳の存在です。その論理性は次のようなものです。

① 全国トップクラスの巨大前方後円墳が河内・大和に最濃密分布しているという考古学的事実は、その地に国内最大の権力者が存在していた証拠である。
② その権力者こそ『日本書紀』に記された天皇家(大和朝廷)のことと考えざるを得ない。
③ 最も古い前方後円墳の箸墓古墳などが大和で発生していることから、前方後円墳は大和朝廷のシンボル的古墳である。
④ その後、全国各地に前方後円墳が造営されたことは、大和朝廷の支配や影響力がその地方に及んでいた証拠と見なすことができる。『日本書紀』の記述もそのことに対応している。

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」で、こうした一元史観の根拠となった前方後円墳の分布や規模の精査により、河内・大和の巨大前方後円墳を天皇陵とすることはできないと発表されたのです。
 服部さんの調査によれば、全国の巨大古墳ベスト50の内訳は次のようになっています。

○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』で天皇陵比定されているもの 13陵
○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』に天皇陵比定の無いもの 24陵(平城陵含む)
○河内・大和以外の巨大古墳 13陵

 このように古墳の規模上位50位の内、『延喜式』で天皇陵とされているものは約1/4の13陵で、その他3/4の巨大古墳は天皇陵とされていないのです。この事実から、巨大古墳を大和朝廷(天皇)による全国支配の根拠とすることはできないと服部さんは指摘されました。
 更に歴代天皇陵を即位年代順に並べ、同時期のその他の巨大古墳と比較すると、5世紀中頃からは天皇陵よりも巨大な「非天皇陵」古墳の方が多くなると言う現象も明らかにされました。すなわち、天皇陵は同時代の古墳の中で常に最大とは限らず、古墳の規模を比較して大和朝廷の天皇陵が最大であるとした大和朝廷一元史観の根拠は学問的検証に耐えられない〝誤解〟だったのです。なお、服部さんと同様の指摘は一元史観に立つ考古学者からもなされており、このことは別途紹介します。(つづく)


第1943話 2019/07/18

箸墓古墳出土物の炭素14測定値の恣意的解釈

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」において、いくつもの重要な論点が発表されました。中でも卑弥呼の墓とされた箸墓古墳出土物(木材)の炭素同位体(C14)測定値による理化学的編年への指摘は衝撃的でした。その測定値からは箸墓古墳を卑弥呼の時代と編年することはできないという科学的事実を指摘されたのです。
 従来は4世紀頃と編年されていた箸墓古墳でしたが、「邪馬台国」畿内説に基づき、より古く編年したいという「動機」が一元史観論者や畿内説論者にはありました。そのようなとき、箸墓古墳周辺から出土した木材片等の炭素同位体測定の結果、3世紀と見なせる測定値が出たことで箸墓古墳は「邪馬台国」と同時代と編年され、卑弥呼の墓とする説が学界の有力説となりました。この理化学的測定結果が「邪馬台国」畿内説の有力なエビデンスとされたわけです。
 この一見〝科学的〟なエビデンスには反論しにくいと誰もが思いました。ところが服部さんはこの測定値の生データを精査され、この生データからは箸墓古墳を3世紀と編年することはできないことに気づかれたのです。というのも測定値の生データ(複数サンプル)は数世紀の差異がある数値(サンプル)群であり、その数値(サンプル)中から3世紀に一致するデータだけを根拠に編年されているという極めて恣意的なデータ解釈が採用されていたからです。
 このことについては服部さんから詳細な論稿が発表されると思いますが、出土した各木片の測定値の分布が数世紀の幅を持っているのであれば、その複数の数値の中から自説に都合のよいデータだけを採用するなどとは、およそ理系(自然科学)では許されない恣意的な方法です。
 更に服部さんは、その3世紀に対応する測定値は4世紀にも対応するもので、その一つの測定値だけを採用したとしても、3世紀と4世紀の両方の可能性があり、3世紀と断定できないことも指摘されました。このように根拠とされた炭素14による測定値の生データからは箸墓古墳の編年は不可能なのです。自説に都合のよい科学的測定データのみを採用して、自説に有利になるように解釈することは学問の禁じ手です。(つづく)


第1927話 2019/06/20

法円坂巨大倉庫群の論理(5)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)の講演に、わたしの前期難波宮九州王朝複都説を指示する、あるいはそれと整合する見解が少なくないことを解説してきました。最後に次の②の見解の重要性についても指摘しておきます。

② 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

 このように上町台地北端は居住や農耕にも適さず、そのため大きな在地勢力も存在しないと考えられています。それにもかかわらず、五世紀には古墳時代最大規模の巨大倉庫群(法円坂遺跡)が造営され、七世紀中頃(652年、九州年号の白雉元年)にはこれもまた国内最大規模の前期難波宮が造営され、同時に難波京(条坊都市)へと発展します。その選地の最大の理由が〝水運による物流の便〟と考えられていることは重要です。
 倉庫群も前期難波宮も当時国内最大規模ですから、その造営主体もまた国内最大の権力者と考えることが真っ当な理解です。しかも、前期難波宮が造営された七世紀中頃は全国に評制が施行された時代です。その施行主体も「難波朝廷、天下立評」(『皇大神宮儀式帳』)と史料に遺されているように前期難波宮にいた権力者によるものです。九州王朝説に立つならばこの前期難波宮にいた権力者は九州王朝(倭国)と考えざるを得ません。
 評制とは全国を行政区画「評」に分割し、それぞれに評督らを任命し、中央集権的律令体制による全国支配を行うという制度です。そのためにも「中央行政府」における水運の便は必須です。各地の物資(兵士・防人も)を集める物流拠点であり、同時に各地に軍隊を派遣できる交通の要所であることが不可欠ではないでしょうか。そうでなければ、律令を制定し、それに基づく中央集権による全国支配などできません。同時に、律令体制による政治を行うために必要な八千人(服部静尚説)もの中央官僚が勤務できる宮殿や官衙、そしてその家族を含めた数万人にもおよぶ人口を維持できる大都市(条坊都市難波京)の造営が不可欠であることもまた言うまでもありません。大和朝廷が『大宝律令』による郡制で全国支配するために藤原京や平城京を造営したのも、同様の理由からです。
 今回の南さんのご講演内容が、前期難波宮九州王朝複都説を結果として指示する考古学分野での知見を数多く含んでいることを解説してきました。最後に、こうした考古学的事実や仮説を教えていただいた南さんに感謝いたします。また、南さんを講演者に推薦していただいた久冨直子さん(市民古代史の会・京都)や原幸子さん(古代大和史研究会・代表)にも御礼申し上げます。


第1926話 2019/06/19

法円坂巨大倉庫群の論理(4)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)講演での③の見解も注目しました。

③ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

 上町台地北端の都市化による人口増を食料供給の面で支えたのが、六世紀末では後背地での大規模な水田開発とされました。その水田開発と古代において最大の灌漑施設である狭山池(616年。年輪年代測定値)との関係について質問したところ、平野区長原遺跡等の洪積台地へも狭山池は灌漑用水を供給したと返答されました。
 この質問の真の目的は難波と筑紫との関係を裏付けることにありました。既に紹介してきましたが、難波池の築堤には太宰府の水城と同じ敷粗朶工法が用いられたことが知られており、このことは難波池の築造を九州王朝による難波複都建設に先立つ食糧増産を目的としたものとするわたしの考えを支持するものでした。南さんは①で、上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)について、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」と指摘されているのですが、両者の類似は都市構造だけではなく、その人口を支える食糧増産施設(狭山池)と太宰府防衛の巨大防塁(水城)の工法にも及んでいたといえそうです。(つづく)


第1925話 2019/06/18

法円坂巨大倉庫群の論理(3)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)のご講演で、次に注目したのが④の見解、中でも「a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後」の部分です。

④ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
 古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。
b.第2段階(六世紀) 難波屯倉(ミヤケ)の時代
 六世紀前半に人口が急増しており、台地高所に役所的建物群、その北西に倉庫の建物群が配置され、工房も漸増する。港(難波津)から役所へ至る道も造営される。
c.第3段階(六世紀末〜七世紀前半) 難波遷都前夜
 台地中央の役所群が整い、それを囲むように工房群が増加(7ヶ所程度。手工業の拡大と多角化)する。

 ここで示された〝古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。〟という考古学的出土事実は、九州王朝説にとって有利なものではありません。この出土事実は、九州王朝説よりも「河内王朝説」というような仮説を指し示すからです。質疑応答で南さんも「河内政権」という言葉を漏らされてもいました(南さんが「河内政権」という概念を支持されているか否かは当講演内容では不明)。
 そこでわたしは次の質問をぶつけてみました。

 「古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群はその規模から王権の倉庫と考えられるが、その規模に相応しい最大規模の王権の遺跡や王権中枢の所在地はどこと考えておられるのか。」

 この質問の回答として奈良盆地内のどこかの遺構を挙げられるのではないかとわたしは予想していたのですが、南さんの回答は、そうした遺構は見つかっておらず、もしかすると大阪城の場所に宮殿遺構があったのかもしれない、というものでした。これは考古学者らしい誠実な回答と思いました。大和朝廷一元史観の論者なら、奈良盆地内のどこかにあったはずという〝答え〟なのでしょうが、上町台地北端の都市化を研究されてきた南さんは、大規模倉庫群の側に王宮はあったと推定されているのです。
 これは『日本書紀』の記述を妄信しない、出土事実に基づく学問的な姿勢と思いました。この姿勢は「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)〝七世紀後半の難波と飛鳥〟でも紹介した佐藤隆さんの主張〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟に通じるもので、両者のこうした学問的姿勢は大阪歴博考古学者の学風ではないでしょうか。(つづく)


第1924話 2019/06/17

法円坂巨大倉庫群の論理(2)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)のご講演「日本列島における五〜七世紀の都市化-大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」において、いくつもの注目点がありますので、一つずつ解説します。
 まず、わたしが驚いたのは下記の①の見解です。

① 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

 わたしが九州王朝(倭国)の複都と考える前期難波宮や難波京が置かれた上町台地北端が古墳時代の日本列島内最大規模の都市であるという事実と、その内部構造や性格が同じく最大規模の遺構とされる博多湾岸(比恵・那珂遺跡)と類似しており、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである」とまで述べられたことは重要です。上町台地の遺跡を30年以上にわたり調査発掘されてきた南さんの指摘だけに格段の重みがあります。
 この考古学的知見はわたしの前期難波宮九州王朝副都説にとって有利なことは、お解りいただけることと思います。しかも、当地への九州王朝の影響が古墳時代(五世紀)まで遡ることも示唆するものです。この点、九州王朝の難波・河内進出時期の考察にあたり、その時期を「Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期」としてきた、わたしの作業仮説の再考を促すものでもあります。
 質疑応答では、上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)の共通した土器の出土など、両者の交流の痕跡の有無について質問が出されました。南さんはそうした調査に関する知見をお持ちでなかったようで、回答をひかえられましたが、わたしの調査では下記の報告書に難波から出土した筑紫の土器の報告などがあります(古墳時代とは時期が異なるかもしれません)。「洛中洛外日記」でも紹介してきたところですので、当該部分を再掲載します。

「洛中洛外日記」224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
 (前略)わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。(後略)

「洛中洛外日記」243話 2010/02/06
「前期難波宮と番匠の初め」
 (前略)寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。(後略)

「洛中洛外日記」1830話 2019/01/26
難波から出土した「筑紫」の土器(2)
 (前略)『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。
 「5.その生産地について
 (中略)難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。ただ、(B)の杯身中に際立った特徴をもつ一群があり、それらは他のものと生産地を異にすると考えられる。それは、158〜163で、たちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものである。これらは、個体数こそ少ないが稀有な例ではない。さらにそのうち、162・163は色調が灰白色を呈し、胎土も非常によく似ている。その色調・胎土の特徴は、(B)の坏蓋や、SK9343出土土器中の65・67にもみられ、特異な一群を形成している。
 杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(186頁)
 (中略)ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。
○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』1977年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』1979年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』1972年

 以上ですが、詳細は「古田史学の会」HP収録の「洛中洛外日記」をご覧下さい。(つづく)


第1923話 2019/06/16

法円坂巨大倉庫群の論理(1)

 本日、I-siteなんばで開催された古代史講演会(共催)で考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)による「日本列島における五〜七世紀の都市化-大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「姫たちの古伝承」という講演を拝聴しました。南さんは30年以上にわたり難波を発掘してこられただけに、広範な出土事実に基づいた説得力ある講演でした。
 南さんの講演で、わたしが特に注目したのは次の諸点でした。

① 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

② 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

③ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世期末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

④ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
 古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(16棟、計1450m2以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約1200人/年の食料備蓄が可能。
b.第2段階(六世紀) 難波屯倉(ミヤケ)の時代
 六世紀前半に人口が急増しており、台地高所に役所的建物群、その北西に倉庫の建物群が配置され、工房も漸増する。港(難波津)から役所へ至る道も造営される。
c.第3段階(六世紀末〜七世紀前半) 難波遷都前夜
 台地中央の役所群が整い、それを囲むように工房群が増加(7ヶ所程度。手工業の拡大と多角化)する。

 こうした考古学的知見は、「洛中洛外日記」1921話(2019/06/14)〝「難波複都」関連年表の作成(2)〟で論じた「難波複都関連史」の実態を推し量る上で重要です。

Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期
Ⅱ期(七世紀初頭〜652年) 狭山池・難波天王寺(四天王寺)・難波複都造営期
Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686) 前期難波宮の時代(倭京・太宰府と難波京の両京制)
Ⅳ期(朱鳥元年・686〜) 前期難波宮焼失以後

 この中のⅠ期とⅡ期に相当するのが今回の南さんの講演で解説された時代です。(つづく)


第1922話 2019/06/15

箸墓古墳改築説と応神陵の『日本書紀』不記載

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。7月はアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)、8月は福島区民センターで開催します。明日、16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です(午前中は全国世話人会開催)。午後は大阪文化財研究所長の南秀雄さんをお招きし、「日本列島における五〜七世紀の都市化」という演題で講演していただきます(諸団体と共催。後述)。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「姫たちの古伝承」というテーマで講演されます。
 今回は古墳について考古学と文献史学からの研究報告がありました。まず大原さんからは、箸墓古墳はホタテ貝式古墳に前方部を増築したものとする仮説が発表されました。確かに箸墓古墳の前方部の形は通常の前方後円墳とはやや異なっており、わたしも違和感を持っていました。ですから、大原さんの仮説に説得力を感じました。
 次いで、谷本さんからは、応神天皇のみが『日本書紀』にその陵墓についての記載がないことを指摘されました。従って、『日本書紀』からは応神陵の所在は不明であり、誉田山古墳を応神陵とする白石太一郎説には史料根拠がないとされました。
 百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を目前にしたグッドタイミングの発表でした。また、谷本さんの発表ではカール・ポパーの反証主義に触れられていましたので、わたしも賛意を示し、反証可能性のない仮説は科学(学問)ではないとすることは自然科学では常識となりつつあり、その点、日本の古代史学界は「戦後型皇国史観」(近畿天皇家が古代日本列島の唯一卓越した権力者とする思想)ともいうべき反証を許さないイデオロギーに基づいていると批判しました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①欽明-推古期の近畿天皇家系譜の異常性について(茨木市・満田正賢)
②壬申の乱(八尾市・服部静尚)
③箸墓古墳の本当の姿について(京都府大山崎町・大原重雄)
④誉田山古墳(伝応神天皇陵)の史料批判(神戸市・谷本 茂)
⑤「韓国西海岸水行説」批判(川西市・正木 裕)
⑥薩摩と南の島々の古代史《大和朝廷以前》(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆『失われた倭国年号 大和朝廷以前』増刷。拡販協力要請。
◆『古代に真実を求めて』バックナンバー廉価販売が好調。在庫僅少。
◆2019年度会費納入状況。
◆6/13 NHKBSのダークサイドストーリーで東日流外三郡誌を偽書としてとりあげ、古田氏の名前も出された。

◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会(会場:I-siteなんば。共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会。参加費無料)
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)。
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
 ※京都新聞が無料告知。

◆6/16 11:00〜12:00 「古田史学の会」全国世話人会(会場:I-siteなんば)
 6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会(会場:I-siteなんば)
 総会終了後、希望者で懇親会開催(当日、会場で受け付け)。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 7/20 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 8/17 10:00〜17:00 会場:福島区民センター
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 7/26 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。

◆「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 7/02 13:30〜17:00
 「磐井の乱-継体紀の謎に迫る-」 講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 7/09 14:00〜16:00
 「徹底解説-邪馬『台』国九州説」 講師:正木裕さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 6/18 18:45〜20:15 「海を渡る倭人〜魏志倭人伝に記された国々」 講師:大下隆司さん。
 7/23 18:45〜20:15 「盗まれた天皇陵」講師:服部静尚さん。

◆火曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 6/26 13:00〜

◆久留米大学講演会(久留米大学御井校舎)
 7/07 14:30〜16:00 「『日本書紀』に盗用された九州の神話」講師:正木裕さん。
7/14 14:30〜16:00 「筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》」講師:古賀達也。


第1921話 2019/06/14

「難波複都」関連年表の作成(2)

 『日本書紀』に見える次の「大道」記事の考察により、「難波複都」関連年表の作成が可能ではないかとわたしは考えました。

○「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
○「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 詳論に入る前に、難波複都関連史を次のⅣ期に分け、その概略を押さえておきたいと思います。

Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃) 九州王朝(倭国)の摂津・河内制圧期
Ⅱ期(七世紀初頭〜652年) 狭山池・難波天王寺(四天王寺)・難波複都造営期
Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686) 前期難波宮の時代(倭京・太宰府と難波京の両京制)
Ⅳ期(朱鳥元年・686〜) 前期難波宮焼失以後

 Ⅰ期(六世紀末頃〜七世紀初頭頃)は多利思北孤の時代に相当し、九州王朝(倭国)が摂津・河内を制圧した時期です。冨川ケイ子さんの研究によれば、『日本書紀』に見える「河内戦争」で、河内の権力者である捕鳥部萬(ととりべのよろず)を殺し、九州王朝(倭国)が当地を直轄支配領域にしたとされます。
 Ⅱ期(七世紀初頭〜652年)は、九州王朝(倭国)が難波の都市化を進めた時期で、難波複都造営に先立ち、人口急増に備えて食糧増産のため古代では最大規模の灌漑施設として狭山池を築造し(616年、出土木樋の年輪年代測定による)、難波天王寺(四天王寺)を創建(倭京二年・619年。『二中歴』年代歴による)しています。
 九州年号(倭国年号)の白雉元年(652)には、国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮が完成します。前期難波宮で執り行われた大規模な白雉改元儀式の様子は、『日本書紀』には二年ずらされて孝徳天皇白雉元年(650)二月条に転用されています。また、前期難波宮造営のために工人(番匠)が難波に集められるのですが、その史料痕跡が「番匠の初め」「常色二年(648)」として、『伊予大三島縁起』に記されていることを正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が発見されています。
 Ⅲ期(白雉元年・652〜朱鳥元年・686)は前期難波宮の時代で、九州王朝(倭国)が倭京(太宰府)と難波京の両京制を採用した時代です。全国に評制を施行し(「難波朝廷、天下立評」『皇大神宮儀式帳』による)、前期難波宮における中央集権的律令体制を構築した九州王朝最盛期から、白村江の敗戦(663年)により国力を急速に失い、近畿天皇家との力関係が劇的に変化した激動の時代です。
 また、白鳳十年(670)には全国的な戸籍である庚午年籍も造籍されていますが、この造籍を実施したのは難波京なのか近江大津宮の近江朝廷なのか、あるいは唐軍が進駐していた太宰府なのかという論争が古田学派では続いており、まだ決着を見ていません。
 そして、九州年号(倭国年号)の朱雀三年(686)正月に前期難波宮は焼失し、同年七月には朱鳥に改元されます。こうして、前期難波宮の時代と九州王朝(倭国)の両京制は終焉しました。
 Ⅳ期(朱鳥元年・686〜)は前期難波宮焼失以後の時代です。難波は歴史の表舞台から遠ざかり、『日本書紀』には断片的に登場するだけです。そして、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替がなされ、大和朝廷は大宝年号を建元(701年)します。この後、難波が脚光を浴びるのは、聖武天皇による後期難波宮の造営と難波遷都を待たなければなりません。(つづく)


第1920話 2019/06/13

「難波複都」関連年表の作成(1)

 「洛中洛外日記」1649話(2018/04/13)〝九州王朝「官道」の造営時期〟において、わたしは九州王朝「官道」の造営時期の史料根拠として次の『日本書紀』の三つの「大道」記事に注目し、確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかとしました。すなわち、前期難波宮を九州王朝が複都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えたわけです。実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解です。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 他方、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できず、7世紀中頃ではちょっと遅いような気がするとも考えていました。
 今回、改めてこれらの記事を精査したところ、わたしの理解が適切ではないことに気づきました。というのも『日本書紀』白雉4年条(653)の(C)「処処の大道を修治(つく)る。」の「修治(つく)る」とは初めて大道を造ったという意味ではなく、既にあった大道を「修治(修理)」したと解すべきだからです。岩波書店『日本書紀』の「修治」に付された訓み「つくる」に惑わされたようです。
 そうすると、『日本書紀』推古21年条(613)の(B)「難波より京への大道を置く。」の記事が注目されます。難波と京(太宰府か)の間に「大道」を造営したという記事ですから、これこそ難波複都や四天王寺(難波天王寺)造営に先立ち、筑紫から摂津難波へ建設に携わる大量の物資や工人(番匠)たちの輸送のための、九州王朝(倭国)による官道造営記事だったのではないでしょうか。
 なお、この記事の「置く」という表現も微妙です。初めて大道を造営したのなら、「造る」のような表現がより適切と思われるからです。もしかすると、既にあった「道」を官道(大道)として「認定」したことを「置く」と表現したのかもしれません。この点、『日本書紀』に見える他の「置く」の用例を調査する必要があります。
 以上のような視点で『日本書紀』などの難波関連記事を見直すことにより、難波複都の歴史を復元(年表作成)できるのではないかと考えています。(つづく)


第1908話 2019/05/26

「釆女氏塋域碑」の碑文「四千代」について

 今月の「古田史学の会」関西例会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より「釆女氏塋域碑」(己丑年、689年)も九州王朝系のものであり、そこに記された「飛鳥浄原大朝庭」を太宰府飛鳥とする見解が発表されました。
 河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土したとされる「釆女氏塋域碑」は行方不明となり、次のような江戸時代の碑文拓本が残されています。

《釆女氏塋域碑》
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。

※現存唯一の真拓(小杉文庫蔵拓本。現在は静岡県立美術館蔵)による。

碑文中の采女竹良の墓所「四千代」という面積は当地に隣接する用明陵、推古陵、聖徳太子陵よりも広いことから、近畿天皇家の官僚のものではないとして、采女竹良を九州王朝(飛鳥浄原大朝廷)が大弁官に任命したものであり、その「飛鳥浄原大朝廷」も太宰府のこととされました。
 「四千代」という面積は「八町」(一町は106m四方)に相当し、「四千代」という広大な墓所は従来の研究でも問題視されてきました。そのため、「四千代」とする論者は采女竹良の一族の墓所と理解してきました(注①)。
 他方、「千」の字は本来は「十」であり、墓碑表面のひびなどにより拓本では「千」に見えているとする見解も有力視されてきました。その上で、「四十代」であれば采女竹良個人の墓所として妥当な面積であるとされました(注②)。
 関西例会で服部さんにこの拓本の文字について確認したところ、「四千代」であったとのことでした。ただし、現存する真拓は小杉文庫蔵拓本だけであり、その他のものは印刷用に作成された「摺本」「版本」ですから、服部さんがどの「拓本」で確認されたのかも重要です。この点、真拓で確認された三谷芳幸さんの論文(注②)によれば、真拓には碑文表面の傷の跡が多く、問題の「千」とされた字も碑文の他の字との比較により「十」と判断されています。
 わたしも、「千」の字は「4」の字に近い字形であり、碑文にある「穢」の字の「禾」の第一画や、「代」「他」の第一画と比べて明らかに異なっていますので、表面の傷により「十」が「4」のような字になって拓出されたとする三谷さんの見解に賛成です。
 なお一言すれば、確かに「四千代」という墓所の面積は「直大弐」の官位の官僚にしては広すぎます。しかし、それは大和(近畿天皇家)であれ筑紫(九州王朝)でれ同じことですから、「四千代」という墓所の面積は九州王朝の官僚と断定する根拠にはなりません。また、同墓碑は河内国春日村の妙見寺に伝わってきたものですから、やはり近畿天皇家の官僚とする通説の方が穏当と思われます。その上で、なぜ持統天皇の時代(己丑年、689年)において、近畿天皇家が官僚任命権を持つことができたのかという視点での研究が必要なのではないでしょうか。
 本稿の是非にかかわらず、服部さんが提起された問題点や仮説は重要なテーマであり、引き続き論議検証されるべきものであることは言うまでもありません。このことを最後に強調しておきたいと思います。

(注)
①近江昌司「釆女氏塋域碑について」『日本歴史』431号 1984年4月。
 近江昌司「妙見寺と釆女氏塋域碑」『古代文化』49(9) 1997年。
②三谷芳幸「釆女氏塋域碑考」『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号 1997年。


第1906話 2019/05/24

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)

 〝七世紀後半の難波と飛鳥〟

 2017年3月、大阪歴博から驚愕すべき論文が発表されました。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)「前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」で紹介した佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号)です。
 従来、ほとんどの考古学出土報告書は『日本書紀』の記述に基づいた解釈(一元史観)を採用し、出土遺構・遺物の編年やその性格を解説するのが常でした。ところが、この佐藤論文では出土事実に基づいた解釈を優先し、それが『日本書紀』とは異なることを明示する、という考古学者としては画期的な報告を行っているのです。たとえば次のような指摘です。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。
 この考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説に見事に対応しています。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波複都は停滞を始めたと思われます。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたのです。文献史学においては古田先生が『日本書紀』の記事を絶対視しせず、中国史書(『旧唐書』「倭国伝」「日本国伝」、他)などの史料事実に基づいて多元史観・九州王朝説を提起されたように、考古学の分野にもこうした潮流が地下水脈のように流れ始めたのではないでしょうか。そしてその地下水脈が地表にあふれ出すとき、日本古代史学は大和朝廷一元史観から多元史観・九州王朝説へのパラダイムシフトを起こすのです。その日まで、わたしたち古田学派は迫害や中傷に怯まず、弛むことなく前進しようではありませんか。(つづく)