考古学一覧

第1904話 2019/05/22

那珂八幡古墳(福岡市)の多元史観報道

 昨日、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりとても感慨深く象徴的な情報が寄せられました。2019/02/14付の西日本新聞朝刊の記事です(本稿末尾に転載)。従来、大和の影響を受けた「纒向(まきむく)型」とみられていた福岡市の那珂八幡古墳の形状が北九州独自のものであることが判明したというものです。
 その詳細は同記事をお読みいただくとして、この記事が持つ学問的画期性について触れたいと思います。それは一言で言えば福岡県の考古学者が大和朝廷一元史観に基づく出土物・遺構解釈から離れて、多元史観による解釈を出土事実に基づき公然と主張しだしたということです。そしてそれをマスコミ(西日本新聞)が報道するようになったという社会の変化(潮目が変わりつつある)が顕著に表れだしたという点です。この傾向は近年の〝弥生時代のすずり〟が福岡県から出土していたという報道が立て続けにあったことからもうかがえていましたが、それが古墳時代でも開始されたということに、わたしは着目しています。当然のこととして、その変化は六世紀からの九州年号の時代いわゆる〝飛鳥時代〟へと続くことが予見されるからです。
 実はこの傾向は大阪歴博の考古学者を中心に数年前から見られてきたもので、今回の記事で紹介されている福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、昨年12月に大阪歴博で開催されたシンポジウム「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ー大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地ー」で、「列島最古の『都市』 福岡市比恵・那珂遺跡群」を発表されています。なお、このシンポジウムの司会は6月16日(日)の古代史講演会(i-siteなんば、「古田史学の会」共催)で講演される南秀雄さん(大阪文化財研究所長)で、南さんも「大阪上町台地の都市化と奈良盆地の比較」を発表されています。
 こうした考古学者の研究発表は、『日本書紀』を根拠とする大和朝廷一元史観とは異なる古代史像を提示するもので、古田先生が提起された多元史観はまず考古学の分野で承認されるものと思われます。
 なお、西日本新聞の記事には博多湾岸を「奴国」とするなど、まだまだ学問的に不適切な部分も含んでいます。しかし、こうした国名などの比定は文献史学の成果に委ねられており、わたしたち古田学派が一元史観との論争(他流試合)の先頭に立たなければなりません。そのためにも更に研鑽を深めたいと願っています。本年11月に開催される「新・八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー2019)」では、他流試合に通用する(一元史観論者をも説得できる)研究者の登場が期待されます。

【2019/02/14付 西日本新聞朝刊】
「ヤマトに服属」定説に一石か
福岡市の那珂八幡古墳
北部九州独自の形状

 古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳・那珂八幡古墳(福岡市博多区)の形が北部九州独自のものであることが、同市の発掘調査で明らかになった。最古級とされる同古墳の形状が近畿とは違うことから、ヤマト王権に服属した証しとして地方の勢力がヤマトをまねて前方後円墳を築造したとする古墳時代像に一石を投じることになりそうだ。
 これまで那珂八幡古墳は「纒向(まきむく)型」とみられていた。纒向型は、古墳時代開始期前後に近畿で築造された纒向石塚古墳(奈良県桜井市)のように、後円部と前方部の長さの比率が2対1で、前方部の端が広がっている形状の古墳を指す。全国に分布し、ヤマト王権の勢力の広がりを示すとされてきた。
 しかし、今回の調査により那珂八幡古墳は、従来75メートルとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45メートルより狭く、纒向型と異なっていた。福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話す。一帯は魏志倭人伝に出てくる奴国の中心部で、同古墳に埋葬された人物は奴国に関わる有力者と考えられる。
 似た形状を持つ古墳は、北部九州の戸原王塚古墳(福岡県粕屋町)や赤塚古墳(大分県宇佐市)などがあるとされるが、いずれも那珂八幡古墳よりも新しい。香川県に分布する開始期前後の前方後円墳も近畿とは形が違い、「讃岐(さぬき)型」と呼ばれることがある。こうしたことから、九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。
 那珂八幡古墳の現地説明会は16日午前10時から開催される。


第1901話 2019/05/15

椿井大塚山墳・黒塚古墳の被葬者は誰か

 河内の巨大前方後円墳の築造者や被葬者についての疑問と同様に、多くの三角縁神獣鏡の出土で有名な椿井大塚山古墳(京都府木津川市)・黒塚古墳(奈良県天理市)についても同様の疑問をわたしは持っています。
 たとえば3世紀末頃の前方後円墳(全長175m)とされる椿井大塚山古墳からは36面以上の三角縁神獣鏡が出土しており、その同笵鏡が西日本各地の古墳から出土していることが知られています。一元史観では大和の有力者が各地の豪族へ「下賜」したものとする説が有力とされています(異見あり)。同様の現象は三角縁神獣鏡33面が出土した黒塚古墳(4世紀初頭〜前半頃。全長130m)でも見られます。この三角縁神獣鏡の同笵鏡出土とその出土中心が両古墳と思われることはわたしも認めうるのですが、わたしの疑問は〝それではなぜ両古墳は「天皇陵」あるいは「皇族」の陵墓として伝承されていないのか〟という一点です。
 九州や関東などの遠隔地の豪族にまで同笵鏡を配布した有力者の古墳であれば、一元史観が正しければ両古墳の被葬者は近畿天皇家の「天皇」かその「皇族」級の権力者と考えざるを得ないでしょう。そうであれば「陵墓」として伝承されていてしかるべきです。しかし、両古墳はそうした伝承を持っていません。従って、両古墳から出土した同笵鏡は近畿天皇家一元史観を否定するのではないでしょうか。


第1900話 2019/05/14

百舌鳥・古市古墳群の被葬者は誰か

 日野智貴さんとの「河内戦争」問答で、日野さんの青年らしい鋭い指摘を受けて、わたしは「大和朝廷」前史というテーマをより深く考える必要性を感じました。その一つとして近畿の巨大前方後円墳の存在をどのように考えるのかがあります。今朝のテレビニュースでは百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録へ前進したと言われています。こうしたことにより、「令和」改元により高まった日本古代史への社会の関心がより学問的に深まることを願っています。
 過日、京都市上七軒で桂米團治さんにお会いしたとき、百舌鳥・古市古墳群について話を聞かせて欲しいと仰っていましたので、古田学派でも研究が進展しつつあると返答しました。「古田史学の会」では、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)の発表により、河内を中心とする八カ国の権力者としての捕鳥部萬(ととりべのよろず)の存在が注目されています。その後、冨川説を発展させるような研究として服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)により、河内の巨大前方後円墳を築造した勢力は近畿天皇家ではなく在地豪族の捕鳥部萬らではなかったかとされ、被葬者も近畿天皇家の「天皇」たちではなく、捕鳥部萬らの先祖ではないかとする仮説が発表されました。
 とても興味深い仮説ですが、学問的に成立するものかどうか服部さんの研究の進展を見守っている状況です。(つづく)


第1890話 2019/05/09

京都市域(北山背)の古代寺院(6)

 連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」の最後として大宅廃寺(山科区)を紹介します。大宅廃寺は早くから顕著な遺跡として認識されていましたが、昭和33年の名神高速道路建設に伴う調査でその一部が明らかとなりました。そして平成16年の調査で金堂基壇(二重基壇)が発見され、七世紀末頃の創建であることがわかりました。
 大宅廃寺の発掘調査で、最も注目されたのが藤原宮の瓦(藤原宮6646C型式)と同笵瓦の出土でした。しかも藤原宮よりも大宅廃寺の瓦の方が先行しており、この地で使用された笵型が藤原宮に転用されたこととなります。この事実は、七世紀末頃には近畿天皇家の影響力が山背国にまで及んでいたことを意味します。当時の近畿天皇家は没落した九州王朝に替わって列島の第一権力者に上りつめ、701年には王朝交替(九州王朝・倭国から大和朝廷・日本国へ)を果たし、九州年号に代えて[大宝」年号を建元しました。そのことを大宅廃寺から出土した藤原宮との同笵瓦も「証言」しているのではないでしょうか。
 このように、京都市域の古代寺院遺構を多元史観・九州王朝説で俯瞰することにより、新たな山背国古代史学が成立すると思われます。(おわり)


第1889話 2019/05/08

京都市域(北山背)の古代寺院(5)

 京都東山の「八坂の塔」として有名な五重塔には法観寺という正式名があることはあまり知られていません(俗称は八坂寺)。元々は塔の北側に金堂や講堂などがあったと推定され、出土した瓦の編年から七世紀第3四半期の創建とされています。昭和53年の塔基壇調査では心礎の巨石が創建時のままで移動していないとのことで、三度の焼失のたびに同じ位置で再建されたことが判明しました。
 伝承では、聖徳太子が四天王寺建立のため山背国愛宕郡の材を求めたとき、この地が気に入り、一堂を建てたことが法観寺の始まりとされています。しかし、七世紀前半の飛鳥時代の遺物が出土しないことから、この伝承は否定されています。心礎の位置(高さ)が基壇上にありますので、七世紀後半頃(白鳳時代)の創建とする見解にわたしも賛成です。白鳳10年(670)年創建とされる太宰府・観世音寺の五重塔もこの様式です。もし飛鳥時代(七世紀初頭頃)であれば心礎は法隆寺五重塔のように地下に埋まっていると思われます。
 他方、広隆寺と同様に法観寺も聖徳太子伝承を持つことには注目すべきです。それは九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承があって、それが後世において聖徳太子伝承として伝えられた可能性があるからです。このように京都市の東西(東山区と右京区)に聖徳太子伝承を持つ大形寺院が現存することは、京都市域が古代において九州王朝との強い関係を持っていたことをうかがわせ、古田史学・多元史観にとって重要な研究課題です。(つづく)


第1888話 2019/05/07

京都市域(北山背)の古代寺院(4)

 北野廃寺(北区北野上白梅町)が最古級(飛鳥時代、七世紀前半頃)の寺院遺跡とれさていることを紹介しましたが、京都市域(北山背)には同じく飛鳥時代の創建とされる広隆寺(右京区太秦)が現存しています。聖徳太子との関係が深く、国宝彌勒菩薩像がある洛西の古刹です。寺域内の発掘調査では七世紀前半頃に遡る素弁蓮華文軒丸瓦が出土していることから、飛鳥時代に遡る創建と見てよいようですが、瓦の編年から北野廃寺の方がより古いとされています。
 北野廃寺と同様に、創建は九州王朝(倭国)の時代ですから、聖徳太子との関係も疑う必要があります。七世紀前半のこの地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられませんので、聖徳太子に関連する伝承や解釈も、九州王朝の天子・多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のものだったのではないでしょうか。
 『日本書紀』の史料批判も含めて、大和の飛鳥や斑鳩以外の地の聖徳太子伝承の見直しが必要です。もちろん広隆寺もその対象です。なぜなら、中世以降に成立した聖徳太子伝記類には九州年号(金光など)が散見され、九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承が近畿天皇家の厩戸皇子の伝承に置き換えられていることがわたしたちの研究により明らかとなりつつあるのですから。(つづく)


第1887話 2019/05/07

京都市域(北山背)の古代寺院(3)

 八角仏塔の樫原廃寺(西京区)、巨大金堂基壇の北白川廃寺(北区)に続いて北野廃寺(北区北野上白梅町)を紹介します。北野廃寺は昭和11年の路面電車(チンチン電車)の敷設工事により発見されました。大量の古瓦が出土し、瓦や土器の編年などにより飛鳥時代(七世紀前半頃)の全国的にも最古級の寺院跡であることがわかりました。京都市考古資料館の展示でも素弁蓮華文軒丸瓦や須恵器坏H、同Gが展示されており、学芸員の方の説明でも七世紀後半の須恵器坏Bは出土していないとのことで、北野廃寺は七世紀前半頃の創建と考えられます。
 この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。従って、飛鳥時代の最古級の寺院創建は九州王朝の影響下でなされたと思われます。既に七世紀初頭頃には九州王朝は難波や河内を直轄支配地としていたと考えられますから、北野廃寺は同時代の難波天王寺などの九州王朝系寺院との関係を考えるべきと思います。
 本稿に関連する〝余談〟ですが、九州王朝説・多元史観に立つと「飛鳥時代」という呼称も再考が必要となりそうです。(つづく)


第1886話 2019/05/06

京都市域(北山背)の古代寺院(2)

 京都市考古資料館の特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」で最も注目した遺跡が北白川廃寺跡(左京区)でした。銀閣寺の北側に位置する北白川地区から廃寺跡が発見されたのは昭和9年のことで、巨大な金堂基壇(36.1m×22.8m)や回廊が出土しました。その後、昭和50年になって金堂の西80mの地点から塔跡も発見されました。
 わたしが驚いたのはその金堂基壇の巨大さです。北白川廃寺創建は出土瓦(山田寺式)を根拠に七世紀の第三四半期の早い時期と編年されており、その時代の寺院の金堂としては奈良県桜井市から出土した吉備池廃寺(37m×約28m)に次ぐ大きさとのことです。現存する法隆寺金堂の基壇が22.1m×18.8mですから、これと比べてもかなりの規模であることがおわかりいただけるでしょう。
 ここで問題となるのが、この北白川廃寺のことは『日本書紀』にも後の史料にも見えず、山背(やましろ)国の北部にこのような巨大寺院を建立した勢力についても不明です。想定される創建時期が前期難波宮とほぼ同時期であることも見逃せません。巨大な北白川廃寺は近畿天皇家とは関係が薄い勢力、あるいはその存在を近畿天皇家が『日本書紀』には記したくなかった勢力による造営と考えるべきではないでしょうか。すなわち、九州王朝系勢力が創建に関わったのではないでしょうか。
 さらに同廃寺の南に隣接する小倉町別当町遺跡からは、「高志」「丁」の刻印をもつ無紋銀銭が出土しています(七世紀中頃と編年)。無紋銀銭は近江の崇福寺遺跡や難波から数多く出土しています。前期難波宮を九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とするわたしの説や、近江朝を九州王朝系とする正木説の立場からすれば、九州王朝と関わりが深いとされる地から無紋銀銭が出土していることとなり、小倉町別当町遺跡から出土した無紋銀銭も偶然と見るよりも、北白川廃寺を創建した勢力(九州王朝系か)との関係を検討すべきものと思われるのです。(つづく)


第1885話 2019/05/05

京都市域(北山背)の古代寺院(1)

 京都市考古資料館(上京区)で特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」(無料)が開催されていることを久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から教えていただき、昨日、見学してきました。
 わたしは古代史研究において、山背(やましろ)国、中でも京都市域についてはそれほど興味がなく不勉強でした。ところが今回の特別展示を拝見して驚きました。もしかすると古代の京都市域(北山背)は九州王朝と関係が深い地域ではないかと考えるようになりました。その理由について紹介したいと思います。もちろん、調査研究や論証はこれからですので、考古学的事実とわたしの感想を記していきます。
 最初に紹介するのが西京区の樫原廃寺です。昭和41年の発掘調査により、七世紀唯一の八角仏塔が出土しています。同時期における八角形の建造物は前期難波宮の八角殿(二基)と熊本県の鞠智城の八角鼓楼(新旧の各二基)が知られているだけですから、非常に珍しいものです。前期難波宮は九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とわたしは考えていますし、鞠智城も九州王朝による要塞的施設ですから、八角仏塔が出土した樫原廃寺も九州王朝との関係があるのではないかと推測しています。
 造営年次は前期難波宮の652年(九州年号「白雉元年」)だけが判明しており、鞠智城鼓楼や樫原廃寺との先後関係は未詳です。しかし、樫原廃寺の八角仏塔を建立した工人集団と前期難波宮の八角殿を造営した工人集団(番匠)とが全くの無関係とは考えにくいのではないでしょうか。なお、樫原廃寺からは八角仏塔を取り囲む回廊・築地塀と大形の中門が出土していますが、金堂に相応しい規模の遺構は回廊内から発見されていません。八角仏塔の北側に小規模の建築物があるだけという、不思議な遺構です。(つづく)


第1860話 2019/03/17

吉野ヶ里遺跡から弥生後期の硯

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からまたまたビッグニュースが届きました。吉野ヶ里遺跡から弥生時代後期(1〜2世紀)の硯が出土していたとのニュースです。3月14日付の西日本新聞、朝日新聞、読売新聞の当該記事切り抜きをメールで送っていただきました。同切り抜きはわたしのFaceBookに掲載していますので、ご覧ください。
 弥生時代後期といえば邪馬壹国の時代で、有明海側からの初めての出土でもあり、興味深いものです。学問的考察はこれから深めたいと考えています。ご参考までにNHK佐賀のNEWS WEB の記事を転載します。

【NHK佐賀のNEWS WEB】2019.03.13
弥生時代に文字介し海外交易か

 弥生時代の大規模な環ごう集落跡として知られる吉野ヶ里遺跡から出土した石器が、弥生時代のすずりとみられることが分かりました。
佐賀県教育委員会は「有明海を通じて行われた海外との交易に文字が使われていた可能性が高い」としています。
 県教育委員会によりますと、吉野ヶ里遺跡から見つかったのはいずれも弥生時代の住居跡などから出土した2つの石器で、人の手で加工した形跡があります。
 このうち1つは長さ7.8センチ幅5.2センチの「石硯」、もう1つは長さ3.8センチ幅3.5センチの墨をすりつぶすための道具「研石」と見られています。
 これらの石器は平成5年から7年にかけて吉野ヶ里遺跡で行われた発掘調査で見つかっていましたが、用途がわからないままになっていました。
 しかし、去年11月福岡市の遺跡で弥生時代のすずりがまとまって見つかったことから、この石器を改めて調べ直したところ、いずれも形状や厚さなどが中国大陸や朝鮮半島で出土したすずりなどと似ていることから、「石硯」と「研石」である可能性があると判断したということです。
 弥生時代のすずりなどが佐賀県内で見つかったのは唐津市の中原遺跡に次いで2例目ですが、有明海沿岸の地域で見つかったのは初めてだということです。
 県教育委員会は「弥生時代に有明海を通じて行われた中国大陸など海外との交易に、すでに文字が使われていた可能性が高い」と評価しています。


第1852話 2019/03/08

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(4)

 小笹さんは論稿末尾に「学問と政治」という一節を置き、次のような注目すべき〝警鐘〟を打ち鳴らしておられます。同論稿中、わたしが最も強く共鳴した部分でした。

 〝過日も多元の会員のかたから「(古代史の)通説など相手にするにたりない」と、私には‘鬼畜通説’‘敵性学問’と言わんばかりにも聞こえる言葉を聞いた。だが古田史学に傾倒する人の誰もが知るように、現実に一般社会に相手にされていないのはむしろ古田史学のほうである。この逆転の原因は何であろうか。〟
 〝刷り込みではない、本来的な意味での学問への取り組みかたは任意であり、とくに多元の会のように、会員の任意によって成立している集合体の各個人の取り組みかたは、極端にいえば‘偏屈老人の単なる居場所’であってもよいし、‘純粋に古代に真実を求める人の心地よい空間’であってもよい。これらの人々にとって通説が‘相手にするにたりないもの’であることも、私にはわかる。しかし‘相手にするにたりない’というその理由が、‘通説は、それを主張している側も、偽装歴史学、偽装学問であることを、百も承知で主張している’ということだとしても、ただ‘相手にするにたりない’ですませるだろうか〟

 このように鋭く問題提起されたあと、次のような衝撃的な告白と警鐘へと小笹稿は続きます。

 〝端的に言えば、私は「古代史がこの国の未来に影響がないのであれば、邪馬台国が近畿であろうと九州であろうと、どうでもよい。九州王朝論が正しかろうと、間違っていようと、どうでもよい。」と考える人間である。その立場から言えば、通説が社会を席巻している以上は、これを単に‘相手にするにたりない’とするだけでは絶対にすませられないのである。相手に、相手にされていない側が、相手を、相手にするにたりないと呼ばわる場合、そこには逃避の臭いが漂うことは、留意する必要があるだろう。〟

 「そこには逃避の臭いが漂う」という小笹さんの指摘(警鐘)は痛烈です。そして、この〝救いようのない現実〟にあって、氏は次のように未来の青年たちへの希望を滲ませておられます。

 〝古田史学は真実を求める。しかし通説に入ってゆく若者も、本来は熱意と能力と良心を持ち、真実を求めて入って行きながら、‘爾後その世界で身を立て、生活を支えねばならない’という若者独特の事情ゆえに、徐々にでも‘真実を求める青年の志’に決別してゆくのである。もしこの若者たちを世俗の呪縛から解放することができれば、歴史学に取り組む彼らの総合力は、古田史学の会や多元の会の、ささやかな老人パワーを圧倒して真実を明らかにするだろう。
 このことを私は、会員各自の取り組みが自由であることとは別に、共通の認識として共有することを切に願う。すくなくとも私の目標はここにある。〟

 ここで示された小笹さんの目標は、わたしの、そして「古田史学の会」の目標そのもそのです。
 小笹論稿最末尾に「(つづく)」とありますが、その続編は現在に至っても『多元』には掲載されていません。安藤会長におたずねすると、続稿は届いていないとのこと。わたしは続編を読みたいと強く願っています。


第1851話 2019/03/07

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(3)

 小笹豊さんは「九州見聞考」において、九州考古学界の重鎮、鏡山猛氏について次のような指摘をされています。

 〝(前略)鏡山氏は、軍役にも就いた経験もある、考古学・古代史学に、通説以外の見解がなかった(古田史学が登場する以前)時代、世代の考古学者で、当然のことながら氏の頭に九州王朝論はなく、通説だけが氏の頭に描かれた古代史解析の基礎となったパラダイムである。それは氏個人の責任ではないが、このことが氏にとって、観世音寺を、当否は別として、法隆寺西院伽藍の移築もととする米田氏のような自由な発想と比べて‘枷’になっていることと、そのパラダイムが戦前の皇国史観の延長線上のものであるという、学問上の本質的な問題点を抱えていること自体は否めない。〟

 小笹さんは続けて次のようにも述べられています。

 〝考古・古代史学は‘昔’を解析する学問であるが、実際に解析・解釈を担当しているのは、現代を含め、対象の年代から見れば後代の人々であって、その解析・解釈にはそれぞれの時代的・社会的背景が作用していることであろう。〟

 こうした小笹さんのご指摘は重要なもので、わたしも同様の視点で、常々、発言もしてきました。というのも、古田学派の研究者や古田ファンの少なからぬ方々が、考古学者による遺跡や出土物の説明を一元史観に基づいているとして批判・非難されることがあるのですが、わたしたち古田学派の人間が思っているほど考古学者は古田史学・九州王朝説を正しく十分に理解・認識されているわけではなく、従って遺跡・遺物に対する解析・解釈は通説(近畿天皇家一元史観)に基づかざるを得ず、またそうすることが彼らにとっての〝学界の基本ルール〟でもあるのです。
 この〝学界の基本ルール〟を墨守する考古学者を一方的に責めるのは酷というものであり、むしろ日本社会において〝学界の基本ルール〟を変えることができない、対等に渡り合えない、圧倒的な少数意見(社会的非力)という状況を未だ変えることができないわたしたち古田学派の〝責任(歴史的使命)〟でもあるのです。小笹論稿にはこうした警鐘が通奏低音の如く鳴り響いており、わたし自身にも耳鳴りのように止むことなく鳴り続けているのです。(つづく)