難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(2)
昨年、「須恵器坏B」の編年とその学問的影響について、下記の「洛中洛外日記」で繰り返し論じました。短期間でこれほど同一テーマを論じたのは初めてと思いますが、これは7世紀における土器や遺構の年代が「須恵器坏B」の再編年により大きく変わる可能性があるため、念入りに論じたものです。
○1753〜1762話 2018/09/19〜29
7世紀の編年基準と方法(1)〜(10)
○1764〜1773話 2018/09/30〜10/13
土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)〜(9)
○1787話 2018/11/20
佐藤隆さんの「難波編年」の紹介
○1789〜1790話 2018/11/22
前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(1)〜(2)
○1793〜1795話 2018/11/30〜12/01
前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1)〜(3)
○1796〜1800話 2018/12/03〜07
「須恵器坏B」の編年再検討について(1)〜(5)
前期難波宮整地層から出土した「須恵器坏B」を根拠に、前期難波宮を天武期の造営とする説(注)があるのですが、理化学的年代測定や前期難波宮の水利施設から大量に出土した7世紀前半から中頃と編年されている須恵器坏Hと坏Gにより、ほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持しており、それが通説となっています。
その結果、従来7世紀後半頃と編年されていた須恵器Bですが、前期難波宮整地層からの出土により、7世紀前半頃の発生の可能性が出てきたのです。そうすると、太宰府政庁Ⅰ期の整地層から出土する須恵器坏Bの編年も7世紀前半頃と編年できる可能性があり、太宰府条坊都市の造営を7世紀前半とできるかもしれないと、上記の「洛中洛外日記」で指摘してきました。
そこで、前期難波宮整地層出土「須恵器坏B」を記した報告書を捜しました。ようやく見つけたのが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)にあった「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と解説されている1個の坏B「35」でした。しかし、この坏B「35」についての解説がなく、そのことがずっと気になっていました。そこで新年になって大阪歴博に赴き、再度当時の報告書を精査したところ、思わぬ記述が別の報告書にあるのを発見したのです。(つづく)
(注)小森俊寬(元・京都市埋蔵文化財研究所)『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)