考古学一覧

第1537話 2017/11/11

百済禰軍墓誌の「日本」再考(1)

 久留米市の犬塚幹夫さんから百済禰軍墓誌の研究論文のコピーをたくさんいただいたのですが、ようやく時間ができましたので少しずつ読み始めました。その中には筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生の「中国出土の墓誌にみる亡命百済人について 百済禰軍と扶余太妃」もありました。

 禰軍墓誌については6年ほど前に少しだけ調べ、「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)「百済人祢軍墓誌の『日本』」などで報告しました。既に諸説が発表されており、中でも東野治之さんの「百済人祢軍墓誌の『日本』」(岩波書店『図書』2012.02)では墓誌に見える「日本」を倭国の国名ではなく朝鮮半島諸国のこととされ、この説は有力視されています。

 他方、氣賀澤保規さんは「百済人『祢軍墓誌』と“日本”と660年代の東アジア情勢」(文化継承学Ⅰ報告史料、2013年4月)で東野説を批判され、その時代に国号としての「日本」表記は成立していたと考えてよいとされました。わたしから見ると、東野説も氣賀澤保規さんの批判も大和朝廷一元史観枠内での解釈であるため、いずれも説得力に欠けるように思われました。(つづく)


第1536話 2017/11/05

古代の土器リサイクル(再利用)

 ちよっと理屈っぽいテーマが続きましたので、今回はソフトなテーマで土器のリサイクル(再利用、正確にはリユースか)についてご紹介します。
 同時代九州年号金石文に「大化五子年」土器(茨城県坂東市・旧岩井市出土)があります。当地の考古学者に鑑定していただいたところ、次の二つのことがわかりました。一つは、当地の土器編年によれば西暦700年頃の土器であるということで、『日本書紀』の大化5年(649)ではなく、九州年号の大化5年(699)に一致しました。もう一つは、同土器は煮炊きに使用された後、頸部を割って骨蔵器として再利用されているとのこと。この土器再利用は当地の古代の風習だったそうです。
 日常的に使用した土器を骨蔵器に再利用されていることと、その際に頸部を割るという風習を興味深く思いました。頸部を割ることにより、現在の骨壺の形に似た形状になることも偶然の一致ではないように思われました。こうした土器の頸部を割って骨蔵器として再利用するのは古代関東地方の風習かと思っていたのですが、最近読んだ榎村寛之著『斎宮』(中公新書、2017年9月)に次のような説明と共にその写真が掲載されていました。

 「斎宮跡から五キロメートルほど南にある長谷町遺跡で発見された十世紀の火葬墓では、当時としては高級品である大型の灰釉陶器長頸瓶の頸部を打ち欠いて転用した骨蔵器が出土し、なかから十八〜三十歳くらいの女性の骨が見つかっている。」(183頁)

 斎宮に奉仕した女官の遺骨と思われますが、「大化五子年」土器と同様に頸部を割って再利用するという風習の一致に驚きました。他の地域にも同様の例があるのでしょうか。興味津々です。
 ところで「大化五子年」土器は、今どうなっているのでしょうか。貴重な金石文だけに心配です。


第1514話 2017/10/09

久留米市田主丸で「積石水門」発見

 昨日の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡講演会(共催:久留米大学比較文化研究会・九州古代史の会・古田史学の会)は最後まで活発な質疑応答が続くなど、学問的にも盛況でした。遠くは宮崎県・長崎県・熊本県から参加された方もおられ、九州での古田史学(九州王朝説)への関心の高さがうかがわれました。更に筑紫野市の前畑筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生(福岡女学院大学講師)も見えられ、ご挨拶していただきました。
 九州での講演会ではいつも期待以上の学問的成果に恵まれます。今回も吉田正一さん(菊池市、久米八幡神社宮司)から久留米市田主丸石垣で神籠石山城の水門に似た「石垣高尾遺跡」が発見されていたとの情報が伝えられ、講演会受付を協力していただいた犬塚幹夫さん(古田史学の会会員、久留米市)からは同遺跡の報告書コピーをいただきました。
 犬塚さんからいただいた『石垣高尾遺跡 田主丸町文化財調査報告書第22集』(2003年、田主丸町教育委員会)によると、平成13年に三日谷川砂防ダム工事に伴う調査で発見され、記録保存のための緊急発掘調査の後、取り壊されたとのこと。
 地理的には高良山神籠石と杷木神籠石の中間地点にあり、軍事的要衝の地ではないようです。標高は100mの位置で、その石積みによる谷の水門遺構は神籠石山城の水門によく似ています。花崗岩の長方形石で8段積み上げられており、長さ11.4m(推定20m)、残存高3.8m、提体下部に吐水口があります。他方、山を取り囲むような列石は発見されておらず、その性格は不明と言わざるを得ません。積石から出土した須恵器が8世紀のものと編年されており、造営時期が古代まで遡る可能性が高いと思われます。なお、石積み中央部の石材上面と前面に星形(五芒星)が刻まれており、このような古代の刻印石材の存在は初めて知りました。他に同様例があれば、ご教示ください。
 当地の字地名「石垣」は、この積石水門と関係がありそうな気もしますが、今のところこれ以上のことはわかりません。遺跡が取り壊されたことは残念ですが、同地域の踏査が期待されます。
 なお、犬塚さんからの情報では、同遺跡を『続日本紀』文武3年(699)12月条に見える「三野城」(みののき)ではないかとする見解が研究者から示されているようです。
 「大宰府をして三野、稲積の二城を修らしむ。」『続日本紀』
 水縄(耳納)連山の「みのう」を三野(みの)と考える説ですが、当水門が山城の一部であることの考古学的証明がまず必要です。


第1513話 2017/10/07

すみません。鷲尾愛宕神社の海抜26mを海抜68mに訂正

福岡市西区の愛宕神社初参拝

 明日の久留米大学福岡サテライト教室での講演会のために、今日から福岡入りしました。時間があったので、福岡市西区姪浜の鷲尾愛宕神社を初参拝しました。博多湾や福岡市街を一望できるスポットです。急峻な参道を登ると博多湾に浮かぶ能古島や志賀島が眼前に広がります。山頂に愛宕神社社殿があり、そこはそれほど広い場所ではなく、社殿と社務所と展望台という感じでした。
 古田先生によれば『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」はこの愛宕神社の地とされています。そこで、その愛宕神社を実見したいと願っていました。今日、当地を初めて訪れて、思っていたよりも標高(海抜68m)があり、急峻で、頂上の社殿スペースが狭いということがわかりました。従って、博多湾岸を見下ろす小規模な「砦」、あるいは「物見台」には適地ですが、7世紀中頃の九州王朝(倭国)の天子の宮殿にふさわしい所とはとても思えませんでした。何よりも九州王朝の天子の宮殿を建てられるようなスペースがなく、少なくとも数百人には及ぶであろう、天子家族と衛兵・従者・側用人らの生活に必要な水源もないようです。それとも、衛兵や従者らは水と食料を持参し、山中に野営でもしたとするのでしょうか。戦場であればともかく、『日本書紀』に記されるほどの天子の宮殿に対して、わたしにはそうした光景は想像不可能です。
 また、この海岸に接した位置に天子の宮殿を造営しなければならない理由も不明です。もし造るのなら、より安全な水城の内側ではないでしょうか。当地は白雉改元の儀式や全国を評制支配する政治拠点には不適で、『日本書紀』にわざわざ「難波長柄豊碕宮」と記されるような場所とは思われませんでした(この点については古田先生も気づいておられたようで、そのことについては別途紹介します)。更に7世紀中頃の有力者(九州王朝の天子)が居したとするような現地伝承も見あたりません。
 古田先生が自説の根拠とされた地名の「類似」(那の津、名柄川、豊浜)にしても、愛宕神社の北側の地名が「豊浜」ですから、神社がある愛宕山(旧名:鷲尾山)を「豊碕」と推定する根拠は穏当と思います。しかし「長柄(ながら)」の根拠とされた名柄川は約1.5kmほど西側ですし、「ながら野」は南西方向へ約2.5kmの所にあり、神社のある「愛宕」とは別の場所です。「難波」地名も同地域には見あたりません。ですから、地名の「類似」という根拠もあまり学問的説得力を感じられません。
 もっとも、現存地名やその位置・範囲が7世紀中頃と同じかどうか不明ですから、「類似」地名による論証成立の是非は判断し難いと言わざるを得ません。やはり「決め手」は7世紀中頃の宮殿遺構の出土、あるいはその考古学的痕跡の発見です。これが明確になれば「一発逆転」が可能かもしれません。
 以上が現地訪問の感想ですが、結論を急がず、引き続き調査検討を進めたいと思います。


第1508話 2017/09/25

九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫

 九州王朝史研究の一テーマとして、九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫の調査があり、その研究成果については何度か説明してきました。「倭の五王」から筑紫君磐井たちは筑後地方に盤踞してきたと考えており、阿毎多利思北孤の時代、7世紀初頭になって筑前太宰府に遷宮します(倭京元年〔618年〕が有力候補)。そのとき、筑後に残った一族は稲員家(高良大社大祝の家系)を中心として現代まで御子孫が筑後地方や熊本におられます。ところが、太宰府に遷宮した多利思北孤の御子孫の行方がよくわからないままでした。
 かすかにその痕跡と思われる、戦国武将の筑紫広門を筑紫君の末裔とする史料が散見されるのですが、筑後の稲員家とは異なり、その系図などで確認することができていません。そこで今後の研究者のために筑紫広門を古代の筑紫君の子孫とする史料をご紹介することにします。
 その一つは、安政6年(1859)に対馬の中川延良により記された『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)です。平凡社東洋文庫版によれば次のような記事が見えます。

 「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞えたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子供をつれて黒田長政殿にも嫁し由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上。」平凡社東洋文庫『楽郊紀聞2』229頁

 東洋文庫編集者による次の解説が付されています。
 「筑紫広門。惟門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。再度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」

 ところが『太宰管内志』の「筑前国御笠郡筑紫神社」の項には次のように記されています。

 「さて此社の神官は筑紫氏にして初は社邊に居りたりしを後に兵革を業として天正ノ比武威を振ひし筑紫上野介廣門は此神官の後裔なり、(中略)又〔筑後志四巻〕に筑紫上野介藤原廣門入道宗薫は大職冠鎌足公の後胤にして藤太秀郷の末裔なり下野守尚門は少弐ノ一族にして筑前國御笠郡筑紫村を領じ筑紫を家ノ號とす其子秀門・其子正門・其子惟門・其子廣門なり天正年中惟門肥前國二上山の城より筑後國鷹取の城にうつれり」『太宰管内志』(上)668頁

 『太宰管内志』引用の「筑後國志」によれば、廣門の先祖は少弐氏で筑紫村を領地にしてから筑紫氏を名乗ったとあります。この記事が正しければ、筑紫廣門は古代の筑紫君の子孫ではないかもしれません。少弐氏の出自が不明ですので、今のところこれ以上のことはわかりません。
 筑紫氏といえばニュースキャスターの筑紫哲也さんが有名です。筑紫さんは大分県日田市のご出身とのこと。日田市に筑紫氏がいたことは不思議ですが、日田市出土の金銀象嵌鉄鏡と筑紫さんのご先祖と何か関係があるのでしょうか。ちなみに筑紫哲也さんは古田先生の九州王朝説をご存じで、生前、わたしもお葉書をいただきました。おそらく、自らの出自を九州王朝の筑紫君だったと思っておられたのではないでしょうか。


第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1505話 2017/09/21

日本列島出土の鍍金鏡

 熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳出土の鍍金鏡(直径14.65cm)を含め、日本列島からは3面の鍍金鏡の出土が知られています。
 1面は九州王朝の中枢領域である糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀後半、墳丘長103m)から出土した方格規矩四神鏡(直径21.2cm)です。同古墳は糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝の有力者の古墳と見てもよいと思います。もしかすると4世紀後半頃の「倭王」かもしれません。5世紀の「倭の五王」の時代になりますと、倭国(九州王朝)は筑後地方に遷都(遷宮)したと、わたしは考えていますから、被葬者はその直前の倭王の可能性が高いように思います。
 もう1面は何故か九州から遠く離れた岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳(5世紀中頃〜6世紀初頭、主軸全長75m)から鍍金獣帯鏡(直径20.3cm)が出土しています。九州王朝説の立場からすると九州内からの鍍金鏡出土は当然とも言えるのですが、岐阜県大野町の城塚古墳からの出土は多元的古代の観点から、この濃尾平野に鍍金鏡を埋納されるにふさわしい「天子」級の権力者が居たことを想像させます。
 もちろん出土した数の数倍の鍍金鏡が古代において存在していたと考えるべきですが、九州地方から2面、東海地方から1面という鍍金鏡出土分布は何を意味するのか、古田学派ならではの研究テーマです。(つづく)


第1504話 2017/09/20

南九州の「天子」級遺品

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)出土の「龍」銀象嵌大刀は、南九州における「天子」級の遺品と思われるのですが、私の知るところでは他にも南九州から「天子」級遺品が二つ出土しています。
 一つは宮崎県串間市王の山から出土したとされる日本列島内では最大の玉璧(直径33cm)です。玉璧は古代中国では天子クラスの権力者の持ち物とされ、なぜ南九州から出土したのか不思議です。九州王朝の中枢領域である筑前からも玉璧の小片が出土しているだけです。同玉璧は中国産(漢代とされる)と思われますが、出土状況などが不明ですので、いつの時代に埋納されたのかなどもわかりません。
 もう一つは熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳から出土した鍍金鏡(直径14.65cm)です。鍍金鏡は全国から数面しか出土しておらず、「天子」級の遺品と言えるのではないでしょうか。才園古墳は6世紀末〜7世紀頃の築造と編年されていますから、その時代に「天子」級の権力者が当地に居たことがうかがわれます。その人物が九州王朝とどのような関係にあったのかなど、やはり多元史観による解明が待たれます。(つづく)


第1503話 2017/09/19

九州王朝(倭国)の「龍」

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について、「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌大刀を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないかと指摘しました。そこで比較のため、九州王朝(倭国)のシンボルとしての「龍」遺品について代表的なものを紹介します。
 九州王朝の「龍」で著名なものが沖ノ島から出土した一対の金銅製龍頭(国宝)でしょう。造られた年代は不明ですが、九州王朝の天子のシンボルにふさわしいものです。
 次いで、ダンワラ古墳(日田市)から出土した金銀象嵌珠龍文鉄鏡に見える「龍文」です。恐らく中国製(漢鏡)と思われますが、国内では他に類例を見ない「宝鏡」で、天子の持ち物にふさわしいものです。それほどの鏡がなぜ日田市から出土したのかなど、解明すべき謎に満ちています。
 製造年代が明確なもとしては、観世音寺の銅鐘上部の「龍頭(りゅうず)」があります。7世紀末頃に造られたと考えられています。九州王朝の都、太宰府を代表する寺院である観世音寺の造営は「白鳳10年(670)」と文献(『日本帝皇年代記』他)に記されおり、出土創建瓦「老司Ⅰ式」の編年(7世紀後半)にも対応しています。
 これら九州王朝を象徴する「龍」遺品と比較すると島内114号地下式横穴墓出土の「龍」銀象嵌大刀はやや見劣りがしますが、時代差もあるため単純には比較できません。いずれにしても、「龍」をシンボルとした南九州の権力者の存在を示すものであり、多元史観によるその実体解明が必要です。(つづく)


第1502話 2017/09/17

「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理

 昨日の「古田史学の会」関西例会で、田原さんと大下さんから発表された宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について考察しました。「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌鉄剣を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないでしょうか。
 この「龍」銀象眼鉄刀を知り、真っ先に思い浮かべたのが同じ九州から出土した江田船山古墳(熊本県和水町。5世紀末〜6世紀初頭)出土の「馬」「水鳥」「魚」「菊花文」が銀象嵌さたれ鉄刀(国宝)でした。おそらくは被葬者は九州王朝の有力武人と思われますが、金象嵌ではなく銀象嵌であることなどから九州王朝の倭王ではなく、その配下の肥後の有力豪族と推測したものです。
 ところがえびの市の島内114号地下式横穴墓出土の鉄刀は同じ銀象嵌ですが、天子のシンボルである「龍」が象嵌されていることから、位取り的には江田船山古墳の被葬者よりも「上位」と考えざるを得ません。他方、その墓制を比較すると、江田船山古墳は墳丘長62mの前方後円墳で、墳丘を持たない島内114号地下式横穴墓とは様相が全く異なります。すなわち、南九州特有の墓制である地下式横穴墓には墳丘により被葬者の権威を誇るという思想性は見られず、むしろ盗掘を恐れて目立たないように埋葬したのではないかとさえ思われるのです。
 この現象は墓制に関する思想性の差かもしれませんが、古代における権力者間の衝突という側面もあったのではないかと考えています。おそらく、北から前方後円墳のような大型古墳の築造勢力(九州王朝か)が南下し、その侵攻と支配に備えて、盗掘から逃れるために地下式横穴墓が採用されたのではないでしょうか。それでは侵攻を受けた南九州の勢力とは何だったのでしょうか。通説では「熊襲」「隼人」と呼ばれた勢力ですが、その実体についての解明は不十分なようです。(つづく)


第1501話 2017/09/16

南九州と北九州の古代

 本日の「古田史学の会」関西例会は8月に続いてI-siteナンバで開催されました。10月・11月・12月はドーンセンターになりますので、お間違えなきよう。
 今回は偶然ですが、南九州をテーマとした発表と北九州をテーマとした発表がそれぞれ二件ありました。関西例会デビューとなった田原さんからは南九州古代史旅行の報告があり、宮崎県の地下式横穴墓などについて詳細な報告がなされました。中でも島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した龍を銀象眼した大刀には驚きました。龍は天子のシンボルであり、その龍の銀象眼鉄剣を持つ被葬者は何者なのか興味を覚えました。ただ残念なことに当地の考古学者の解説は、大刀や鏡などの豪華な副葬品を「ヤマト朝廷からの配布物」「朝鮮半島製」などと徹底的な一元史観でなされていることです。多元史観による研究解明が待たれます。
 同じく南九州の遺跡について、大下さんから研究報告がなされ、弥生時代から飛鳥時代に至る同地域の遺跡や遺物の変遷を知ることができました。大下さんは久しぶりの例会発表でした。南九州の研究は「古田史学の会」では珍しいこともあり、『古田史学会報』への投稿をお願いしました。
 続いて服部さんと正木さんからは、これも偶然ですが、大野城築造年代についての研究報告がなされました。服部さんからは大野城出土軒丸瓦(素弁蓮華文)を根拠に大野城造営年代を7世紀初頭まで遡る可能性について論究され、この軒丸瓦編年についての井上信正さん(太宰府市教育委員会)とのメールによる意見交換についても報告されました。正木さんは大野城出土木柱の理化学的年代測定等を根拠に、大野城造営年代を650年頃とする研究を報告されました。いずれも、有力な説と思われました。
 9月例会の発表は次の通りでした。初参加の方もあり、盛況でした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔9月度関西例会の内容〕
①隋書国伝に関する仮説の検証(茨木市・満田正賢)
②南九州地下式横穴墓群の見学旅行を終えて(神戸市・田原康男)
③古代の南九州-熊襲と隼人-(豊中市・大下隆司)
④百済の瓦と大宰府(大野城)の瓦(八尾市・服部静尚)
⑤大野城の築城年代-赤司善彦「大宰府と古代山城の誕生」を読んで-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念大阪講演会(9/09)の報告。続いて福岡(10/08)、東京(10/15)、松本(11/14)で開催・新入会員情報・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(9/29「南の島々の古代史《大和朝廷以前》」正木裕さん)・会費納入状況・「古田史学の会」関西例会の会場、10月・11月・12月(ドーンセンター)の連絡・友好団体(東京)での研究状況・青木さん(会員)から中国の大学の博士論文記念書籍贈呈される・その他


第1500話 2017/09/15

大型前方後円墳と多元史観の論理(5)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《一の矢》「日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。」に対する多元史観・九州王朝説での反証をなすべく、前方後円墳について集中的に勉強しています。中でも青木敬著『古墳築造の研究 -墳丘からみた古墳の地域性-』(六一書房、2003年)は特に勉強になった一冊で、今も熟読を重ねているところです。優れた考古学者による論文は、たとえ一元史観に基づいていても基礎データが明示されていますので、理系論文を読んでいるような錯覚にとらわれるときがあります。この青木さんの論文もそうした考古学者による優れた研究で、とても勉強になります。
 同書などを読んでいて、九州地方最大の前方後円墳である宮崎県西都市の女狭穂塚古墳についていくつかの重要な視点が得られました。その内の二つを紹介します。
 一つは、隣接する男狭穂塚古墳との関係です。両古墳は同時期(5世紀前半中頃)に計画性を持って隣接する位置に築造されたとする説明もあるようですが、男狭穂塚古墳の方が古いとする説や逆に女狭穂塚古墳が先とする説などもあるようです。わたしの見るところでは、男狭穂塚古墳の前方部の外周部分を破壊し、重ねるように女狭穂塚古墳の後円部外周が築造されていますから、単純に考えると男狭穂塚古墳の方が先に築造されたと理解すべきと思われます。
 この理解が正しければ、両古墳の築造主体は異なる時期の異なる権力者と考えるべきではないでしょうか。すなわち、女狭穂塚古墳の築造者は男狭穂塚古墳の外周を破壊していることから、男狭穂塚古墳の被葬者に敬意を払っていないと考えざるをえないからです。すなわち、西都原古墳群を築造した当地の権力者には男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の間で断絶が発生していた可能性があるのです。
 これが一つ目の視点です。『日本書紀』や現地伝承にそうした権力者の断絶・交代の痕跡があるのか、考古学的実証から文献史学での論証へと展開するテーマが惹起されるのです。
 二つ目は近畿の前方後円墳との関係性です。九州地方の前方後円墳には珍しい「造り出し」と呼ばれている前方部と後円部の間のくびれ部分にある方形の突起台地が女狭穂塚古墳にはその左側にあるのです。この「造り出し」は近畿の前方後円墳で発生し、発展したと理解されており、その「造り出し」を持つことを根拠に、女狭穂塚古墳は近畿型前方後円墳と説明されています。この考古学的事実は大和朝廷一元史観を実証する現象の一つとして、古墳時代には大和朝廷が全国支配を進めたとする有力な根拠(実証)とされています。
 この女狭穂塚古墳が近畿の前方後円墳の影響を受けているという考古学的事実(実証)を多元史観・九州王朝説からどのように説明(論証)するのかが問われているのです。(つづく)