考古学一覧

第1508話 2017/09/25

九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫

 九州王朝史研究の一テーマとして、九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫の調査があり、その研究成果については何度か説明してきました。「倭の五王」から筑紫君磐井たちは筑後地方に盤踞してきたと考えており、阿毎多利思北孤の時代、7世紀初頭になって筑前太宰府に遷宮します(倭京元年〔618年〕が有力候補)。そのとき、筑後に残った一族は稲員家(高良大社大祝の家系)を中心として現代まで御子孫が筑後地方や熊本におられます。ところが、太宰府に遷宮した多利思北孤の御子孫の行方がよくわからないままでした。
 かすかにその痕跡と思われる、戦国武将の筑紫広門を筑紫君の末裔とする史料が散見されるのですが、筑後の稲員家とは異なり、その系図などで確認することができていません。そこで今後の研究者のために筑紫広門を古代の筑紫君の子孫とする史料をご紹介することにします。
 その一つは、安政6年(1859)に対馬の中川延良により記された『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)です。平凡社東洋文庫版によれば次のような記事が見えます。

 「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞えたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子供をつれて黒田長政殿にも嫁し由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上。」平凡社東洋文庫『楽郊紀聞2』229頁

 東洋文庫編集者による次の解説が付されています。
 「筑紫広門。惟門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。再度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」

 ところが『太宰管内志』の「筑前国御笠郡筑紫神社」の項には次のように記されています。

 「さて此社の神官は筑紫氏にして初は社邊に居りたりしを後に兵革を業として天正ノ比武威を振ひし筑紫上野介廣門は此神官の後裔なり、(中略)又〔筑後志四巻〕に筑紫上野介藤原廣門入道宗薫は大職冠鎌足公の後胤にして藤太秀郷の末裔なり下野守尚門は少弐ノ一族にして筑前國御笠郡筑紫村を領じ筑紫を家ノ號とす其子秀門・其子正門・其子惟門・其子廣門なり天正年中惟門肥前國二上山の城より筑後國鷹取の城にうつれり」『太宰管内志』(上)668頁

 『太宰管内志』引用の「筑後國志」によれば、廣門の先祖は少弐氏で筑紫村を領地にしてから筑紫氏を名乗ったとあります。この記事が正しければ、筑紫廣門は古代の筑紫君の子孫ではないかもしれません。少弐氏の出自が不明ですので、今のところこれ以上のことはわかりません。
 筑紫氏といえばニュースキャスターの筑紫哲也さんが有名です。筑紫さんは大分県日田市のご出身とのこと。日田市に筑紫氏がいたことは不思議ですが、日田市出土の金銀象嵌鉄鏡と筑紫さんのご先祖と何か関係があるのでしょうか。ちなみに筑紫哲也さんは古田先生の九州王朝説をご存じで、生前、わたしもお葉書をいただきました。おそらく、自らの出自を九州王朝の筑紫君だったと思っておられたのではないでしょうか。


第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1505話 2017/09/21

日本列島出土の鍍金鏡

 熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳出土の鍍金鏡(直径14.65cm)を含め、日本列島からは3面の鍍金鏡の出土が知られています。
 1面は九州王朝の中枢領域である糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀後半、墳丘長103m)から出土した方格規矩四神鏡(直径21.2cm)です。同古墳は糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝の有力者の古墳と見てもよいと思います。もしかすると4世紀後半頃の「倭王」かもしれません。5世紀の「倭の五王」の時代になりますと、倭国(九州王朝)は筑後地方に遷都(遷宮)したと、わたしは考えていますから、被葬者はその直前の倭王の可能性が高いように思います。
 もう1面は何故か九州から遠く離れた岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳(5世紀中頃〜6世紀初頭、主軸全長75m)から鍍金獣帯鏡(直径20.3cm)が出土しています。九州王朝説の立場からすると九州内からの鍍金鏡出土は当然とも言えるのですが、岐阜県大野町の城塚古墳からの出土は多元的古代の観点から、この濃尾平野に鍍金鏡を埋納されるにふさわしい「天子」級の権力者が居たことを想像させます。
 もちろん出土した数の数倍の鍍金鏡が古代において存在していたと考えるべきですが、九州地方から2面、東海地方から1面という鍍金鏡出土分布は何を意味するのか、古田学派ならではの研究テーマです。(つづく)


第1504話 2017/09/20

南九州の「天子」級遺品

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)出土の「龍」銀象嵌大刀は、南九州における「天子」級の遺品と思われるのですが、私の知るところでは他にも南九州から「天子」級遺品が二つ出土しています。
 一つは宮崎県串間市王の山から出土したとされる日本列島内では最大の玉璧(直径33cm)です。玉璧は古代中国では天子クラスの権力者の持ち物とされ、なぜ南九州から出土したのか不思議です。九州王朝の中枢領域である筑前からも玉璧の小片が出土しているだけです。同玉璧は中国産(漢代とされる)と思われますが、出土状況などが不明ですので、いつの時代に埋納されたのかなどもわかりません。
 もう一つは熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳から出土した鍍金鏡(直径14.65cm)です。鍍金鏡は全国から数面しか出土しておらず、「天子」級の遺品と言えるのではないでしょうか。才園古墳は6世紀末〜7世紀頃の築造と編年されていますから、その時代に「天子」級の権力者が当地に居たことがうかがわれます。その人物が九州王朝とどのような関係にあったのかなど、やはり多元史観による解明が待たれます。(つづく)


第1503話 2017/09/19

九州王朝(倭国)の「龍」

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について、「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌大刀を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないかと指摘しました。そこで比較のため、九州王朝(倭国)のシンボルとしての「龍」遺品について代表的なものを紹介します。
 九州王朝の「龍」で著名なものが沖ノ島から出土した一対の金銅製龍頭(国宝)でしょう。造られた年代は不明ですが、九州王朝の天子のシンボルにふさわしいものです。
 次いで、ダンワラ古墳(日田市)から出土した金銀象嵌珠龍文鉄鏡に見える「龍文」です。恐らく中国製(漢鏡)と思われますが、国内では他に類例を見ない「宝鏡」で、天子の持ち物にふさわしいものです。それほどの鏡がなぜ日田市から出土したのかなど、解明すべき謎に満ちています。
 製造年代が明確なもとしては、観世音寺の銅鐘上部の「龍頭(りゅうず)」があります。7世紀末頃に造られたと考えられています。九州王朝の都、太宰府を代表する寺院である観世音寺の造営は「白鳳10年(670)」と文献(『日本帝皇年代記』他)に記されおり、出土創建瓦「老司Ⅰ式」の編年(7世紀後半)にも対応しています。
 これら九州王朝を象徴する「龍」遺品と比較すると島内114号地下式横穴墓出土の「龍」銀象嵌大刀はやや見劣りがしますが、時代差もあるため単純には比較できません。いずれにしても、「龍」をシンボルとした南九州の権力者の存在を示すものであり、多元史観によるその実体解明が必要です。(つづく)


第1502話 2017/09/17

「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理

 昨日の「古田史学の会」関西例会で、田原さんと大下さんから発表された宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について考察しました。「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌鉄剣を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないでしょうか。
 この「龍」銀象眼鉄刀を知り、真っ先に思い浮かべたのが同じ九州から出土した江田船山古墳(熊本県和水町。5世紀末〜6世紀初頭)出土の「馬」「水鳥」「魚」「菊花文」が銀象嵌さたれ鉄刀(国宝)でした。おそらくは被葬者は九州王朝の有力武人と思われますが、金象嵌ではなく銀象嵌であることなどから九州王朝の倭王ではなく、その配下の肥後の有力豪族と推測したものです。
 ところがえびの市の島内114号地下式横穴墓出土の鉄刀は同じ銀象嵌ですが、天子のシンボルである「龍」が象嵌されていることから、位取り的には江田船山古墳の被葬者よりも「上位」と考えざるを得ません。他方、その墓制を比較すると、江田船山古墳は墳丘長62mの前方後円墳で、墳丘を持たない島内114号地下式横穴墓とは様相が全く異なります。すなわち、南九州特有の墓制である地下式横穴墓には墳丘により被葬者の権威を誇るという思想性は見られず、むしろ盗掘を恐れて目立たないように埋葬したのではないかとさえ思われるのです。
 この現象は墓制に関する思想性の差かもしれませんが、古代における権力者間の衝突という側面もあったのではないかと考えています。おそらく、北から前方後円墳のような大型古墳の築造勢力(九州王朝か)が南下し、その侵攻と支配に備えて、盗掘から逃れるために地下式横穴墓が採用されたのではないでしょうか。それでは侵攻を受けた南九州の勢力とは何だったのでしょうか。通説では「熊襲」「隼人」と呼ばれた勢力ですが、その実体についての解明は不十分なようです。(つづく)


第1501話 2017/09/16

南九州と北九州の古代

 本日の「古田史学の会」関西例会は8月に続いてI-siteナンバで開催されました。10月・11月・12月はドーンセンターになりますので、お間違えなきよう。
 今回は偶然ですが、南九州をテーマとした発表と北九州をテーマとした発表がそれぞれ二件ありました。関西例会デビューとなった田原さんからは南九州古代史旅行の報告があり、宮崎県の地下式横穴墓などについて詳細な報告がなされました。中でも島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した龍を銀象眼した大刀には驚きました。龍は天子のシンボルであり、その龍の銀象眼鉄剣を持つ被葬者は何者なのか興味を覚えました。ただ残念なことに当地の考古学者の解説は、大刀や鏡などの豪華な副葬品を「ヤマト朝廷からの配布物」「朝鮮半島製」などと徹底的な一元史観でなされていることです。多元史観による研究解明が待たれます。
 同じく南九州の遺跡について、大下さんから研究報告がなされ、弥生時代から飛鳥時代に至る同地域の遺跡や遺物の変遷を知ることができました。大下さんは久しぶりの例会発表でした。南九州の研究は「古田史学の会」では珍しいこともあり、『古田史学会報』への投稿をお願いしました。
 続いて服部さんと正木さんからは、これも偶然ですが、大野城築造年代についての研究報告がなされました。服部さんからは大野城出土軒丸瓦(素弁蓮華文)を根拠に大野城造営年代を7世紀初頭まで遡る可能性について論究され、この軒丸瓦編年についての井上信正さん(太宰府市教育委員会)とのメールによる意見交換についても報告されました。正木さんは大野城出土木柱の理化学的年代測定等を根拠に、大野城造営年代を650年頃とする研究を報告されました。いずれも、有力な説と思われました。
 9月例会の発表は次の通りでした。初参加の方もあり、盛況でした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔9月度関西例会の内容〕
①隋書国伝に関する仮説の検証(茨木市・満田正賢)
②南九州地下式横穴墓群の見学旅行を終えて(神戸市・田原康男)
③古代の南九州-熊襲と隼人-(豊中市・大下隆司)
④百済の瓦と大宰府(大野城)の瓦(八尾市・服部静尚)
⑤大野城の築城年代-赤司善彦「大宰府と古代山城の誕生」を読んで-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念大阪講演会(9/09)の報告。続いて福岡(10/08)、東京(10/15)、松本(11/14)で開催・新入会員情報・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(9/29「南の島々の古代史《大和朝廷以前》」正木裕さん)・会費納入状況・「古田史学の会」関西例会の会場、10月・11月・12月(ドーンセンター)の連絡・友好団体(東京)での研究状況・青木さん(会員)から中国の大学の博士論文記念書籍贈呈される・その他


第1500話 2017/09/15

大型前方後円墳と多元史観の論理(5)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《一の矢》「日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。」に対する多元史観・九州王朝説での反証をなすべく、前方後円墳について集中的に勉強しています。中でも青木敬著『古墳築造の研究 -墳丘からみた古墳の地域性-』(六一書房、2003年)は特に勉強になった一冊で、今も熟読を重ねているところです。優れた考古学者による論文は、たとえ一元史観に基づいていても基礎データが明示されていますので、理系論文を読んでいるような錯覚にとらわれるときがあります。この青木さんの論文もそうした考古学者による優れた研究で、とても勉強になります。
 同書などを読んでいて、九州地方最大の前方後円墳である宮崎県西都市の女狭穂塚古墳についていくつかの重要な視点が得られました。その内の二つを紹介します。
 一つは、隣接する男狭穂塚古墳との関係です。両古墳は同時期(5世紀前半中頃)に計画性を持って隣接する位置に築造されたとする説明もあるようですが、男狭穂塚古墳の方が古いとする説や逆に女狭穂塚古墳が先とする説などもあるようです。わたしの見るところでは、男狭穂塚古墳の前方部の外周部分を破壊し、重ねるように女狭穂塚古墳の後円部外周が築造されていますから、単純に考えると男狭穂塚古墳の方が先に築造されたと理解すべきと思われます。
 この理解が正しければ、両古墳の築造主体は異なる時期の異なる権力者と考えるべきではないでしょうか。すなわち、女狭穂塚古墳の築造者は男狭穂塚古墳の外周を破壊していることから、男狭穂塚古墳の被葬者に敬意を払っていないと考えざるをえないからです。すなわち、西都原古墳群を築造した当地の権力者には男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の間で断絶が発生していた可能性があるのです。
 これが一つ目の視点です。『日本書紀』や現地伝承にそうした権力者の断絶・交代の痕跡があるのか、考古学的実証から文献史学での論証へと展開するテーマが惹起されるのです。
 二つ目は近畿の前方後円墳との関係性です。九州地方の前方後円墳には珍しい「造り出し」と呼ばれている前方部と後円部の間のくびれ部分にある方形の突起台地が女狭穂塚古墳にはその左側にあるのです。この「造り出し」は近畿の前方後円墳で発生し、発展したと理解されており、その「造り出し」を持つことを根拠に、女狭穂塚古墳は近畿型前方後円墳と説明されています。この考古学的事実は大和朝廷一元史観を実証する現象の一つとして、古墳時代には大和朝廷が全国支配を進めたとする有力な根拠(実証)とされています。
 この女狭穂塚古墳が近畿の前方後円墳の影響を受けているという考古学的事実(実証)を多元史観・九州王朝説からどのように説明(論証)するのかが問われているのです。(つづく)


第1498話 2017/09/09

大型前方後円墳と多元史観の論理(4)

 宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳であり、九州王朝の倭王磐井の岩戸山古墳よりも大きくても、一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしい大和朝廷の巨大前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能としましたが、これこそ「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 この《一の矢》に対して、近畿の大型前方後円墳は近畿天皇家の墳墓ではないとする仮説で挑戦を試みられているのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)ですが、それとは異なった仮説で挑まれた著作がありました。吉田舜著『九州王朝一元論』(葦書房刊、1993年)です。その概要と論理的根幹は次のようなものでした。

①古代日本列島の代表王朝は九州王朝である。
②九州王朝は代表王朝としてふさわしい規模の墳墓を築造したはずである。
③日本列島中最大の巨大前方後円墳を擁するのは近畿(河内や大和など)の前方後円墳群である。
④従って、近畿(河内や大和など)の前方後円墳群は九州王朝の歴代国王の墳墓である。

 このような「骨太」な論理展開により、近畿の巨大前方後円墳は九州王朝の墳墓とする仮説を提起されたのです。御著書を吉田さんからいただいたときは、この問題の重要性にわたしはまだ気づいていませんでした。その後、一元史観支持の研究者との論議において、《一の矢》への九州王朝説からの回答の一つとして吉田さんの仮説を研究史の中で位置づける必要に気づきました。
 わたしは今でもこの吉田仮説に賛成はできませんが、《一の矢》への問題意識を早くから持っておられたことは、研究者として敬意を表したいと思います。なお、わたしが吉田仮説に賛成できない理由は次のようなことです。

(1)九州王朝が遠く離れた近畿に墳墓を築造しなければならなかった理由が不明。
(2)5世紀の古墳時代は各地に王権(九州王朝・出雲王朝・関東王朝・東北王朝など)が併存していた時代であり、日本列島を代表する九州王朝(倭国)とは別の王権が近畿にあった可能性を否定できず、その地の巨大古墳はその地の王権の墳墓とする、多元史観の基本的な考え方と相容れない。
(3)5世紀末頃から6世紀初頭の九州王朝・倭王の墳墓として岩戸山古墳などが八女丘陵から三潴地方に点在しており、近畿の巨大古墳群との「連続性」がうかがわれない。

 大型前方後円墳(考古学的事実・実証)について多元史観による論理(合理的な説明)を構築(論証)することが古田学派にとって重要な課題であることを改めて訴えたいと思います。(つづく)


第1497話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(3)

 東北地方最大の前方後円墳である雷神山古墳(名取市、墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)が九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半)よりも大きいことを知り、九州地方の大型前方後円墳についても調べてみました。その結果、宮崎県の西都原古墳群にある女狭穂塚古墳(西都市、墳丘長180m、5世紀前半中頃)が九州地方最大の墳丘長を持つことがわかりました。近くにある男狭穂塚古墳(西都市、墳丘長175m、5世紀前半中頃)も岩戸山古墳より巨大で、帆立貝形古墳としては日本最大とのこと。
 九州王朝説に立つわたしとしては、九州王朝(倭国)の王墓は中枢領域の筑前や筑後にあったと考えており、そうであれば倭王にふさわしい最大規模の古墳が同地にあったと考えたいのですが、考古学的事実としては宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳なのです。なぜ筑前や筑後から離れた日向国にこうした巨大古墳群があるのか、九州王朝説・多元史観からはどのように考えるべきなのかが問われることでしょう。
 なお一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしいもっと巨大な近畿天皇家の前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能です。(つづく)


第1496話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(2)

 一元史観では、近畿の巨大前方後円墳(大和朝廷)の影響が九州や東北にまで及び、各地で前方後円墳が築造されたと理解し、古墳時代には大和朝廷が唯一最大の列島の代表王朝であった証拠とします。この一元史観による多元史観・九州王朝説否定の根拠と論理に対して、果敢に挑戦されたのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による、河内などの巨大前方後円墳は近畿天皇家の祖先の墓ではないとする仮説です。
 この服部説の当否は今後の研究や論争を待ちたいと思いますが、仮にこの服部説が正しくても九州王朝説の論拠とはなりません。すなわち服部説だけでは、畿内の近畿天皇家とは別の勢力が河内などに割拠し、巨大前方後円墳を築造したというに留まるからです。従って、古墳時代には各地に王権や王朝が並立していたとする多元史観の論拠の一例とはできますが、九州王朝存在の直接的な論拠とはできないのです。
 そこで注目されるのが冨川ケイ子さんの「河内戦争」論です(『盗まれた「聖徳太子」伝承』に収録。古田史学の会編、明石書店刊)。『日本書紀』用明紀に見える「河内戦争」記事の史料批判により、摂津や河内など八国を領する王権が存在し、九州王朝との「河内戦争」により滅亡したとする仮説です。この滅ぼされた勢力を仮に「河内王権」と呼びますと、この冨川説の延長線上に、河内などに分布する巨大前方後円墳の被葬者は「河内王権」の歴代王者だったという仮説が発生します。これは「仮説の重構」ではなく、連動する「仮説の系」と言えそうです。しかも、先の服部説との整合が可能です。
 さらに言うならば、服部説と冨川説も連動した「仮説の系」と考えざるを得ないように思われます。なぜなら、服部説によれば河内などの巨大前方後円墳を築造した、近畿天皇家とは別勢力の存在が『日本書紀』の記述には見えず、その勢力がその後どのようになったのかも、冨川説以外では説明されていないからです。したがって、服部説を「是」とするのであれば、冨川説も「是」とせざるを得ないのです。その逆も同様で、冨川説を「是」とするのなら服部説も「是」となります。他に有力な仮説があれば別ですが、管見では冨川説以外に納得できる仮説を知りません。
 この連動する仮説群、すなわち「仮説の系」という概念を古代史の論証において明示されたのは他ならぬ古田先生でしたが、この「仮説の系」と「仮説の重構」とを区別せずに、両者共に否定する論者が見かけられます。もちろん「系」と「重構」のいずれであるのかは仮説ごとに判断しなければならないことは言うまでもありません。(つづく)


第1495話 2017/09/04

大型前方後円墳と多元史観の論理(1)

 初期須恵器窯跡の勉強を通じて、仙台地方に初期須恵器釜跡の大蓮寺窯跡、東北地方最大の前方後円墳である雷神山古墳(名取市、墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)や遠見塚古墳(仙台市、墳丘長110m、4世紀末〜5世紀初頭)が築造されていること知りました。このことから仙台平野や名取平野が古墳時代において、東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえるのですが、この雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半)よりも墳丘長が大きいのです。
 一元史観ではこのことをもって、近畿の巨大前方後円墳(大和朝廷)の影響がこの時期に九州や東北にまで及んでいた根拠とします。この一元史観による九州王朝説否定の論理はかなり手強く、これに対して理詰めで反論し、「他流試合」に勝つことは大変です。わたしの経験でも、一元史観を支持する理系の某教授との論争が2時間近くに及んだことがあり、巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその教授からは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。理系の人間なら客観的エビデンス(実証)を示せ」と強硬に主張され、ついに彼を説得することができませんでした。
 なお、その教授は理由もなく一元史観に固執する頑迷な人間ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ優れた研究者です。その彼を理詰めで説得するためにも、古田学派は戦後実証史学で理論武装した一元史観(戦後型皇国史観)との「他流試合」に勝てる論証を更に構築しなければならないと強く思いました。(つづく)