考古学一覧

第1498話 2017/09/09

大型前方後円墳と多元史観の論理(4)

 宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳であり、九州王朝の倭王磐井の岩戸山古墳よりも大きくても、一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしい大和朝廷の巨大前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能としましたが、これこそ「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 この《一の矢》に対して、近畿の大型前方後円墳は近畿天皇家の墳墓ではないとする仮説で挑戦を試みられているのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)ですが、それとは異なった仮説で挑まれた著作がありました。吉田舜著『九州王朝一元論』(葦書房刊、1993年)です。その概要と論理的根幹は次のようなものでした。

①古代日本列島の代表王朝は九州王朝である。
②九州王朝は代表王朝としてふさわしい規模の墳墓を築造したはずである。
③日本列島中最大の巨大前方後円墳を擁するのは近畿(河内や大和など)の前方後円墳群である。
④従って、近畿(河内や大和など)の前方後円墳群は九州王朝の歴代国王の墳墓である。

 このような「骨太」な論理展開により、近畿の巨大前方後円墳は九州王朝の墳墓とする仮説を提起されたのです。御著書を吉田さんからいただいたときは、この問題の重要性にわたしはまだ気づいていませんでした。その後、一元史観支持の研究者との論議において、《一の矢》への九州王朝説からの回答の一つとして吉田さんの仮説を研究史の中で位置づける必要に気づきました。
 わたしは今でもこの吉田仮説に賛成はできませんが、《一の矢》への問題意識を早くから持っておられたことは、研究者として敬意を表したいと思います。なお、わたしが吉田仮説に賛成できない理由は次のようなことです。

(1)九州王朝が遠く離れた近畿に墳墓を築造しなければならなかった理由が不明。
(2)5世紀の古墳時代は各地に王権(九州王朝・出雲王朝・関東王朝・東北王朝など)が併存していた時代であり、日本列島を代表する九州王朝(倭国)とは別の王権が近畿にあった可能性を否定できず、その地の巨大古墳はその地の王権の墳墓とする、多元史観の基本的な考え方と相容れない。
(3)5世紀末頃から6世紀初頭の九州王朝・倭王の墳墓として岩戸山古墳などが八女丘陵から三潴地方に点在しており、近畿の巨大古墳群との「連続性」がうかがわれない。

 大型前方後円墳(考古学的事実・実証)について多元史観による論理(合理的な説明)を構築(論証)することが古田学派にとって重要な課題であることを改めて訴えたいと思います。(つづく)


第1497話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(3)

 東北地方最大の前方後円墳である雷神山古墳(名取市、墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)が九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半)よりも大きいことを知り、九州地方の大型前方後円墳についても調べてみました。その結果、宮崎県の西都原古墳群にある女狭穂塚古墳(西都市、墳丘長180m、5世紀前半中頃)が九州地方最大の墳丘長を持つことがわかりました。近くにある男狭穂塚古墳(西都市、墳丘長175m、5世紀前半中頃)も岩戸山古墳より巨大で、帆立貝形古墳としては日本最大とのこと。
 九州王朝説に立つわたしとしては、九州王朝(倭国)の王墓は中枢領域の筑前や筑後にあったと考えており、そうであれば倭王にふさわしい最大規模の古墳が同地にあったと考えたいのですが、考古学的事実としては宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳なのです。なぜ筑前や筑後から離れた日向国にこうした巨大古墳群があるのか、九州王朝説・多元史観からはどのように考えるべきなのかが問われることでしょう。
 なお一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしいもっと巨大な近畿天皇家の前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能です。(つづく)


第1496話 2017/09/05

大型前方後円墳と多元史観の論理(2)

 一元史観では、近畿の巨大前方後円墳(大和朝廷)の影響が九州や東北にまで及び、各地で前方後円墳が築造されたと理解し、古墳時代には大和朝廷が唯一最大の列島の代表王朝であった証拠とします。この一元史観による多元史観・九州王朝説否定の根拠と論理に対して、果敢に挑戦されたのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による、河内などの巨大前方後円墳は近畿天皇家の祖先の墓ではないとする仮説です。
 この服部説の当否は今後の研究や論争を待ちたいと思いますが、仮にこの服部説が正しくても九州王朝説の論拠とはなりません。すなわち服部説だけでは、畿内の近畿天皇家とは別の勢力が河内などに割拠し、巨大前方後円墳を築造したというに留まるからです。従って、古墳時代には各地に王権や王朝が並立していたとする多元史観の論拠の一例とはできますが、九州王朝存在の直接的な論拠とはできないのです。
 そこで注目されるのが冨川ケイ子さんの「河内戦争」論です(『盗まれた「聖徳太子」伝承』に収録。古田史学の会編、明石書店刊)。『日本書紀』用明紀に見える「河内戦争」記事の史料批判により、摂津や河内など八国を領する王権が存在し、九州王朝との「河内戦争」により滅亡したとする仮説です。この滅ぼされた勢力を仮に「河内王権」と呼びますと、この冨川説の延長線上に、河内などに分布する巨大前方後円墳の被葬者は「河内王権」の歴代王者だったという仮説が発生します。これは「仮説の重構」ではなく、連動する「仮説の系」と言えそうです。しかも、先の服部説との整合が可能です。
 さらに言うならば、服部説と冨川説も連動した「仮説の系」と考えざるを得ないように思われます。なぜなら、服部説によれば河内などの巨大前方後円墳を築造した、近畿天皇家とは別勢力の存在が『日本書紀』の記述には見えず、その勢力がその後どのようになったのかも、冨川説以外では説明されていないからです。したがって、服部説を「是」とするのであれば、冨川説も「是」とせざるを得ないのです。その逆も同様で、冨川説を「是」とするのなら服部説も「是」となります。他に有力な仮説があれば別ですが、管見では冨川説以外に納得できる仮説を知りません。
 この連動する仮説群、すなわち「仮説の系」という概念を古代史の論証において明示されたのは他ならぬ古田先生でしたが、この「仮説の系」と「仮説の重構」とを区別せずに、両者共に否定する論者が見かけられます。もちろん「系」と「重構」のいずれであるのかは仮説ごとに判断しなければならないことは言うまでもありません。(つづく)


第1495話 2017/09/04

大型前方後円墳と多元史観の論理(1)

 初期須恵器窯跡の勉強を通じて、仙台地方に初期須恵器釜跡の大蓮寺窯跡、東北地方最大の前方後円墳である雷神山古墳(名取市、墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)や遠見塚古墳(仙台市、墳丘長110m、4世紀末〜5世紀初頭)が築造されていること知りました。このことから仙台平野や名取平野が古墳時代において、東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえるのですが、この雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半)よりも墳丘長が大きいのです。
 一元史観ではこのことをもって、近畿の巨大前方後円墳(大和朝廷)の影響がこの時期に九州や東北にまで及んでいた根拠とします。この一元史観による九州王朝説否定の論理はかなり手強く、これに対して理詰めで反論し、「他流試合」に勝つことは大変です。わたしの経験でも、一元史観を支持する理系の某教授との論争が2時間近くに及んだことがあり、巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその教授からは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。理系の人間なら客観的エビデンス(実証)を示せ」と強硬に主張され、ついに彼を説得することができませんでした。
 なお、その教授は理由もなく一元史観に固執する頑迷な人間ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ優れた研究者です。その彼を理詰めで説得するためにも、古田学派は戦後実証史学で理論武装した一元史観(戦後型皇国史観)との「他流試合」に勝てる論証を更に構築しなければならないと強く思いました。(つづく)


第1494話 2017/09/03

須恵器窯跡群の多元史観(5)

 初期須恵器窯跡の分布から判断して、東北の仙台市にある大蓮寺窯跡を蝦夷国の中枢領域への須恵器供給のためのものと推定していますが、同地域に東北地方最大の前方後円墳があることも何か関係がありそうです。
 東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡は、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と編年されていますが、それよりも半世紀ほど前に仙台市内最大の前方後円墳である遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末〜5世紀初頭)が築造されていますし、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末〜5世紀初頭)もあります。このことから仙台平野や名取平野が古墳時代において、東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。
 一元史観ではこのことをもって、大和朝廷の影響がこの時期に仙台地方まで及んでいた根拠としますが、古田史学・多元史観から考えると、九州王朝の影響が直接的あるいは間接的に当地に及んだということになります。とすれば、蝦夷国が初期須恵器や前方後円墳などの墓制を受容したか、九州王朝系勢力が当地にまで進出していたということになりそうです。そうしますと、蝦夷国に対して抱いていた従来の印象が大きく変化するのではないでしょうか。(つづく)


第1493話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(4)

 朝鮮半島から陶質土器がもたらされ、初期須恵器が国内各地で造られたました。その初期須恵器窯跡の分布を見て、不思議なことに気づきました。初期須恵器窯は福岡県朝倉を筆頭に大阪府の陶邑窯や吹田窯、そして名古屋の東山窯など西日本に主に分布しているのですが、東日本には関東を飛び越えて仙台の大蓮寺窯が発見されています。これは実に不思議な分布状況ではないでしょうか。
 この大蓮寺窯跡は東北地方最古の須恵器窯跡とされ、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と編年されています。今後は関東からも初期須恵器窯跡が発見されるかもしれませんが、大蓮寺窯跡は陶邑窯跡の流れとする説や朝鮮半島から直接この地にもたらされた可能性を指摘する説があります。いずれにしても、大和朝廷一元史観による従来の解釈、すなわち陶邑に伝わった須恵器製造技術が日本各地に伝播したとする一元説では説明しにくく、多元的に国内各地に初期須恵器窯が成立したとする理解が有力説として登場しているようです。
 しかし、わたしの目から見るとこの初期須恵器窯多元説でも、なぜ東北地方の仙台にいち早く伝わったのかという説明がなされておらず、大和朝廷一元史観に基づく解釈を常とする考古学界の限界を感じます。古田史学・多元史観によりこの分布状況を解釈すれば、古墳時代中期において列島各地に多元的に王朝・王権が存在しており、まず九州王朝に伝わった須恵器製造技術が各地の王権に伝播したと理解するのが穏当と思われます。そのように考えると、近畿の王権(近畿天皇家あるいは冨川ケイ子さんが提唱された「河内王朝」)へ伝わったのが陶邑窯跡群であり、蝦夷国に伝わったのが仙台市の大蓮寺窯跡ではないでしょうか。
 この考えを更に敷衍すると、その論理展開として埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘等に代表される関東王朝の地からも初期須恵器窯跡が発見されるのではないかと考えています。すなわち初期須恵器窯多元説とは多元史観(多元的王朝の成立)を前提とした考古学的理解なのです。(つづく)


第1492話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(3)

 須恵器は古墳時代中期に朝鮮半島の陶質土器がもたらされ、その製造技術や工人が渡来し初期須恵器が国内各地で造られたと考えられています。そしてその初期須恵器が最初に造られたのが福岡県の小隈窯跡とする見解があることを紹介しました。
 従来は堺市の陶邑窯跡群が国内最古とされてきましたが、さすがに朝鮮半島から瀬戸内海を通過して、その間の他地域には目もくれず一直線に畿内に向かい、陶邑窯跡群が造営されたとするのは言いにくくなったようです。しかし強固な一元史観論者からは様々な解釈(いいわけ)が試みられているようです。いわく、「中央政権(大和朝廷)と朝鮮半島諸国の太いパイプにより、直接的に陶邑に須恵器製造技術がもたらされた」というような解釈です。ものは言いようと、わたしは感じました。その一例を紹介します。

 「地理的要因とは別に、こうした生産工人集団は東をめざし、大阪湾に直進している。そして生産を開始した。この事実は、北部九州のあり方とは基本的に異なる。瀬戸内海の東端を目的地として目指したのであり、不目的な漂流の結果ではない。恐らく、中央政権ないしは関連する中央豪族と深く関係していたことは、先学の説くところであり、そのあり方は、陶邑窯における後の展開に大きく現れてくる。」(226頁)
 「窯成立のルートとして、北部九州→三谷三郎池西岸窯→吹田32号窯→陶邑窯・一須賀2号窯と藤原氏は描くが、筆者は前述したように、第1に朝鮮半島→陶邑窯の太いルートを前提として考えたい。その過程で三谷三郎池西岸窯・吹田32号窯・一須賀2号窯への同時到着、あるいは折り返しを想定する。もちろん漂着等による偶発的な開窯も否定できないが、各港々にそうした偶然は不自然である。」(227頁)
 植野浩三「日本における初期須恵器生産の開始と展開」『奈良大学紀要』第21号(1993年)

 こうした植野さんの理解は、わたしたち多元史観・九州王朝説論者からは強引な解釈と見えますが、現在の古代史学界の通説“大和朝廷一元史観”に従えばこのように解釈せざるを得ず、考古学者の植野さん一人を責めるのは酷のようにも思えます。大和朝廷一元史観という日本古代史学界の「岩盤規制」を打ち破ることは、古田学派にしか成し遂げられない歴史的使命だとわたしは考えています。(つづく)


第1491話 2017/09/01

須恵器窯跡群の多元史観(2)

 一元史観によれば畿内の陶邑窯跡群(堺市・他)から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようですが、須恵器の勉強を続けていると面白い事実を発見しました。それは国内最古の須恵器生産地は九州の窯跡のようなのです。
 九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したのではないかと考えられ、初期の須恵器窯跡遺跡について文献調査したところ、次のような記述がありました。

 「北九州地域では、初期須恵器か陶質土器かで議論を呼んでいた古寺・池の上墳墓群(朝倉市:古賀注)出土の遺物がまず注目される。初期須恵器と陶質土器(朝鮮半島産の土器:古賀注)が混在する状況があり、その評価をめぐって見解が分かれていた。すなわち舶載の可能性を含めたものと、すべて国産とするものであり、後者は、さらにその前後関係をも問題にしている。
 しかし、これらの遺物のうち、陶質土器は、近接して所在する小隈・山隈・八並窯跡群で生産されたものと考えられるにいたり、やがて、この点の決着もつくものと期待されている。
 またこのほか、筑紫野市内でも窯跡が相次いで見つかっている。これらから、従来の初期須恵器あるいは陶質土器の産地および流通などに関して再検討が必要となってきている。
 したがってこの点、結論を出すには早計であるが、九州地域の初期須恵器あるいは陶質土器の流通は、必ずしも畿内とのかかわりを考慮しないで考えるほうがよいかもしれない。今後は、当該地域における生産活動が、いったいいつ畿内の体制に組み込まれるのか、あるいは、組み込まれないのかなど問題が発展していくものと考えられる。」中村浩『須恵器』34〜35頁(1990年、柏書房)

 北部九州の朝倉市の初期須恵器窯跡群が畿内の陶邑窯跡群とは無関係に成立していたと考えたほうがよいとする記述ですが、いまひとつ何が言いたいのか素人にはよくわかりません。そこで、更に文献調査したところ、次の記述を見つけました。

 「ところで、福岡県小隈窯跡については、最近の調査によって『窯跡の範囲を把むことができ、その数は、さらに数基に及ぶことが想定』されるにいたっている。また灰原から池の上Ⅱ、Ⅲに相当する遺物が『灰原から一括遺物として取り上げ』られている。従来これらの遺物は、陶質土器と呼称されており、国産品であることが明らかとなった上は、報告者が『これらの遺物を須恵器として報告』したことに賛意を表する。
 さらにこれらの製品が供給されていたと見られる古寺・池の上墳墓群の調査報告から判断すると、この確認によって当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている。しかし当該墳墓群出土遺物についても必ずしも一致しておらず、問題を残している。」中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』67〜69頁(1993年、柏書房)

 須恵器研究の第一人者である中村浩さんによる、朝倉市出土の「当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている」という指摘は貴重です。朝鮮半島からもたらされた須恵器生産技術が距離的に近い北部九州でまず受容されるのは、多元史観・一元史観を問わず普通に納得できることですが、それでも一元史観の論者には「不都合な真実」かもしれません。ご紹介した両書は今から20年ほど前の発行ですから、引き続き最新情報についても調査と勉強を進めます。(つづく)


第1488話 2017/08/26

須恵器窯跡群の多元史観(1)

 このところ太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸須恵器窯跡群(大野城市・他)に興味を持って、須恵器窯跡群について勉強を続けています。古代において代表的で最大規模の須恵器窯跡群として堺市の陶邑窯跡群は有名ですが、それに次いで規模が大きいのが愛知県名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群とされています。これらは三大須恵器窯跡群遺跡とも称されており、古代(古墳時代〜)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させます。
 とりわけ陶邑窯跡群は近畿の巨大古墳群を造営した権力者に須恵器を供給していたのですが、このことが大和朝廷一元史観の考古学的根拠の一つとなっています。さらに一元史観によれば陶邑窯跡群から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようです。その上で、陶邑窯跡群出土須恵器の編年がそのまま各地域の須恵器編年に援用されています。
 九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したと考えたいところです。規模も北部九州の窯跡群が最大規模であってほしいところですが、現在の発掘結果では堺市等の陶邑窯跡群が最大です。
 九州王朝や近畿天皇家の中枢領域にそれぞれ巨大窯跡群が存在することを考えると、東海の猿投山窯跡群にも対応すべき九州王朝や近畿天皇家に匹敵する権力者がいたと考える必要がありそうです。(つづく)


第1487話 2017/08/25

7世紀の王宮造営基準尺(3)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について、最も信頼性が高い数値が藤原宮の基準尺(1尺29.5cm)です。一寸刻みの目盛りを持つ物差しが出土したことと、遺構の設計数値がその物差しと一致していることにより、その信頼性が得られました。その物差しと設計基準尺について、木下正史著『藤原京 よみがえる日本最古の都城』(中公新書、2003年)には次のように紹介されています。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長29.5センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使用されたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが29.5センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」(84ページ)

 藤原宮は出土干支木簡の年代から680年頃から造営が始まったことが判明しており、当時の近畿天皇家(天武期)の公式な基準尺が1尺29.5cmであることがわかります。
 前期難波宮(652年)が1尺29.2cm、大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃)が1尺約29.6〜29.8cmであることから、7世紀において、基準尺が少しずつ大きくなっているようです。この変化がどのような理由によって起こったのかはまだわかりませんが、九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代期に何らかの事情により、基準尺にも変化が生じたのではないでしょうか。(つづく)


第1486話 2017/08/24

大阪歴博で市大樹さんの講演会

 木簡研究で優れた業績を発表された市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)について、「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」にて紹介しました。
 『日本書紀』孝徳紀の白雉改元(650年2月)の儀式が行われた宮殿を前期難波宮とする新説を市さんは発表されたのですが、そのことを講演されるようです。前期難波宮(通説では難波長柄豊碕宮)の完成は孝徳紀白雉三年(652年9月)と記されており、その二年以上前に白雉改元の儀式が前期難波宮で行われるとは考えにくいと思うのですが、上町台地で大規模な改元儀式が行える場所は前期難波宮(法円坂)以外にはありません。そのため、市さんは650年には改元儀式が行える程度には工事が進んでいたとされました。
 わたしは『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉は2年のずれがあり、九州年号の白雉元年(652年)であれば、その年に完成した前期難波宮での改元儀式は可能と考えています。すなわち、九州王朝説と九州年号の実在を認めれば、前期難波宮の完成と白雉改元儀式の年が一致し、市さんのように完成の2年前に改元儀式を行ったという無理な解釈にはしらなくてもすむのです。講演会で質疑応答ができれば、この点をお聞きしたいと思います。
 最後に大阪歴博ホームページの講演会の案内を転載します。前期難波宮が一元史観の通説ではどのように位置づけられているのかがよくわかりますので、ご参照ください。

【転載】
特集展示「新発見!なにわの考古学2017」関連行事
「大阪の歴史を掘る2017」講演会
 市 大樹氏講演
孝徳朝における難波の諸宮

 特集展示「新発見!なにわの考古学2017」の関連行事の一つとして9月23日(土・祝)に「大阪の歴史を掘る2017」講演会を開催します。
 今回は、大阪大学大学院文学研究科 准教授の市 大樹氏にご講演いただきます。前期難波宮が孝徳天皇の造営した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に相当することは、現在ほぼ受け入れられています。しかし『日本書紀』をひもとくと、孝徳朝には難波の諸宮として、子代離宮(こしろのかりみや)・蝦蟇行宮(かわずのかりみや)・小郡宮(おごおりのみや)・難波碕宮(なにわさきのみや)・味経宮(あじふのみや)・大郡宮(おおごおりのみや)なども登場し、問題はかなり複雑です。この講演では、難波長柄豊碕宮に軸を据え、他の諸宮との関係を探ります。
 また、当館の村元健一が、特集展示「新発見!なにわの考古学2017」で展示する大阪市内の発掘調査の成果を紹介します。注目される調査には喜連西(きれにし)遺跡の古墳時代初頭の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、後期難波宮の官衙(かんが)、住吉行宮(すみよしあんぐう)跡の堀と思われる中世の大規模な溝があります。昨年の発掘調査から何が明らかになったのかを考えます。

主催 大阪歴史博物館
日時 平成29年9月23日(土・祝)
   午後1時30分〜4時30分(午後1時より受付)
会場 大阪歴史博物館 4階 講堂
内容
「平成28年度 大阪市内の発掘調査」
     村元健一(当館学芸員)
「孝徳朝における難波の諸宮」
     市大樹 氏(大阪大学大学院文学研究科 准教授)

定員 250名(当日先着順)
参加費 500円
参加方法 当日直接会場にお越しください


第1485話 2017/08/21

牛頸遺跡大型須恵器窯跡の質疑応答

 「洛中洛外日記【号外】2017/08/20」にて、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から教えていただいた「大野城市牛頸遺跡から大型須恵器窯跡発見」のニュースを紹介しました。太宰府に須恵器を供給していた九州最大規模の牛頸窯跡群遺跡(大野城市・春日市・太宰府市)の小田浦窯跡遺跡から大型須恵器窯跡発見の報告が大野城市ホームページで閲覧可能とのことで、わたしも拝見しました。
 そして、大野城市ホームページを介して次の質問を出したところ、翌日には丁寧なご返答をいただきましたので、紹介します。

《質問1》「1・2号窯で7世紀前半ごろの須恵器と一緒にまとまった量の瓦が見つかっている」とのことだが、どんな瓦か? 編年は可能か?
《回答》軒丸・軒平瓦は出土していません。大部分が丸瓦・平瓦で構成され、凸面は平行タタキ、凹面は布目痕(+同心円文当具痕の資料を含む)が基本となっています。当窯跡資料だけでの編年は困難だと考えています。

《質問2》「7世紀前半頃の須恵器」とは様式は何か?
《回答》瓦が出土した窯(2号窯)の須恵器は、小田富士雄編年(北部九州で一般的に利用する編年)で1VB期にあたります。近畿地方で類似した土器相としては、中村浩編年のⅡ型式5段階が挙げられます。年代観は、小田先生に準拠したものです。

《質問3》正式な報告書はいつごろ発刊されるか?
《回答》2007年(平成19年)3月に刊行しています。図書名は『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(大野城市文化財調査報告書第73集)です。大学や研究機関、自治体に配布しておりますので、ご参照ください。また、九州国立博物館の関連サイト「西都太宰府」の中、「資料ライブラリー」にPDF版が掲載されています。合わせてご案内申し上げます。
 不明な点などございましたら、ご連絡ください。
 今後ともよろしくお願いいたします。
         大野城市ふるさと文化財課
             林 潤也

 以上のような懇切丁寧なご返答をいただきました。研究者として、とてもありがたいことです。現在、ご教示いただいたサイトの資料を精読しています。発見がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。